自動ドアの開く速さが、その男が音を鳴らして駆け込むその速さにやっとのところで追いついた。そいつは、傍目にも苛立っていることがありありとわかる様を惜し気なく押し出しながら(こんな時でも、妹の前に出ればこいつは柔らかな声になれるのだからとんだ役者だ)、大きな目を吊り上げたままこちらを向く。否、恐らく視界には入れていない。恐ろしい形相のそいつは、点けっ放しになっていたテレビを荒々しい仕草で消す。ぷつり、と音が途切れたそこには、今まで、美しい姫を全身で体現するあの少女が映っていた。華やかな衣装、可愛らしい声、やわらかなその全てがきっと彼には自分を嘲笑っているようにしか見えないに違いない。呆れたものだと、しかし今はただ笑い飛ばすことも出来ずに私はただ黙って、一層強くぬいぐるみに抱き付いた。彼のその仕草が、恐かったからではない。そういうものは、彼の弱さからくるものだと私は知っているから、別段恐ろしいなどとは思わない。口で負かすことなど、容易いことなのだ。じゃあ何故、と言われれば、今自分は彼の目の端くれにも入っていないことに気が付いているからに他ならなかった。たぶん、嫌味を言っても、今の彼には痛くも痒くもないに違いない。単に、より苛立たせるくらいの効果しか発揮しないことだろう。基本的には、人の話しなど聞かない奴だ。彼は、そのまま乱暴に椅子に座り、頭を抱え込むようにして深く息を吐いた。あぁ、あるいは酷く彼は弱っているのだろうか。というか、まぁ、それは苛立っていることある意味で同義でもあるのだが。考えながら、私は寝返りを打って彼の方に顔を向ける。その美貌を、覆う影はどこまでも深く、それを抱え込む様はどこまでも惨めだ。あの優しげな少女が明るく笑うたび、この影はどこまでも濃くなっていくのだろう。馬鹿な奴だ、いつだって、どうしてそうまでして身の内に巣食う重く暗い激情に食らいつくのだろう。私は眉を潜めながら、しかしその男は私の視線などまるで気にしていないのか、或いは気付いてすらいないのか、また荒々しい仕草で立ち上がる。椅子のキャスターが磨かれたフローリングを滑り、壁に激突し鈍い音が響く。彼はしかしそれを戻さないまま(よっぽど重症なのだろう)、無言で扉に近付いていく。すると、彼が近づくより随分と早いタイミングで、それは開いた。
「お兄様、お茶の用意ができたのですけど・・・その」
アイリッシュブラウンの髪がさらりと揺れ、垣間見えたその愛らしい顔を伺えば、小さな眉を潜め酷く不安そうにしていた。
「何か、落し物ですか?すごく、大きな音がして・・・」
心配そうな声音に、男は我に返ったようにして、その今まで影が落ちていたはずの表情には穏やかさが灯される。そしてどこまでも優しそうな笑みを浮かべながら、それと似つかわしい優しい声音で「大丈夫だよ、ナナリー。椅子を、ちょっと壁にぶつけちゃって」とおどけたように言ってみせた。やはり、役者だ。人のことは言えないのかもしれないが、しかし彼の変貌振りはそのシステムが知りたくなるほど不可解なことが多いのだ。特に、妹へ対してなど。
「まぁお兄様ったら、物は大事に扱わなくちゃいけないんですよ」
「そうだな、気をつけるよナナリー。そうだ、お茶の準備が出来たって?」
「はい、今日はアップルティーです。あと、咲世子さんとクッキーを焼いてみたのですけど・・・」
「それは楽しみだな」
楽しげに会話を続けながら、男は妹の車椅子を押して、廊下へと消えた。私は伺うようにそれを見送ってから、大きな溜息を吐きたくなった。あの兄妹は、見ているとどうしようもなく温かな気持ちにさせてくれることもあれば、どうしようもない大きな不安を抱かせることもあるのだ。結局は傍観するしかない私ですら、つい口を挟みたくなってくるほどに。
(だって、おかしいだろう)
彼らは、疑いようもなくひとつだ。否、ルルーシュはそう思い込んでいて、妹はそうであるようにと無意識のうちに己を押さえ込んでいる。たぶん、おかしいなどと言うのは、失礼なのだと思う。人の在り方などそれこそ人の数だけ在るのだ、そのひとつひとつを拾い上げて難癖をつける行為に何の意味もない。これが私の在り方だと、堂々とあの妹はそう言うのかも知れない。けれど、そもそもその在り方にすら、あのふたりにはズレが生じていた。今以上を望むことなどない妹と、今以上を常に望みつづけている兄。そんなズレを抱え込んだまま、それはどこまで続いていけるものなのだろうか。こんなことを他人が考えることは、きっと間違いようのない余計な世話でしかないのだけれど、けれど、いつかその日が来たとして。少女が、もし独りきりで立つ決意をした日が来たとしたら。
(お前は、それを受け入れられるのか)
恐らくは受け入れてしまうのだろうと、予感した自分がどこか滑稽で、またひそやかに笑いながら強くぬいぐるみを抱き寄せた。