「あ、」
小さく呟いて、けれど余りに小さすぎたそれは誰に聞こえることもなかった。珍しい、ただその一言に尽きる。体温計が示す温度は、通常のものより幾分か高く、頭がくらくらとする原因をしっかりと示していた。そして慌ててそれを元の場所へ仕舞う。
(これくらいなら大丈夫だ)
椅子に置かれていた鞄を掴み、立ち上がる。今日は午後からの授業には出られる予定で、忙しそうにしていたセシルは立ち上がった自分を見てにこやかに手を振った。その背後にいたロイドの目が、いつも以上に奥深く光っている気がして寒気がした。もしかしたら見られていたのかも知れなかったが、特に彼は指摘することもなくいつものように呑気そうな声を出してやる気なく手を振るだけだ。
「じゃあ、学校へ行って来ます」
およそ軍の挨拶とは思えないほど軟からない日常的な言葉で一礼をして、大学の敷地を抜け出る。多少火照った体には、ごちゃごちゃとした天井の高い空間より肌寒いくらいの外気が心地よかった。気持ちよくて、子どものように抑え目ながらも石畳の道を走っていくと、熱も下がってしまうような気がした。校舎に入った頃には、少し恥ずかしくなって歩を緩める。五限目はもう始まっていたようで、昼下がりの明るさの中にも関わらず学園内は人一人いないかのように静かだ。時折校庭のほうから歓声が上がるくらいで、後は何の物音もない。少しばかり異様な空気の中ロッカールームに入り、ルルーシュから借りていたノートを取り出した。しかしそれを手に持った時、不思議と違和感を感じた。借りた時、ルルーシュの手から渡された時とは違う何か。慌てて開き、そして正体がすぐにわかった。ノート一面を使って大きな文字で、落書きがされている。サルだとか、奴隷だとか。全ページに渡っているであろうそれに驚愕し目を見開き、視線を上げればロッカーの内部の側面にも赤い字で似たような言葉が綴られている。気が付かなかったが、底の部分にはまるで血のような赤のインクが溜まっていた。
「誰が・・・」
否、誰であろうと目的は明確なのだから特に意味はない。それらは全てが同列だ、自分を蔑む立場にいて、それを実行する人々だ。遠くの方から誰かが近づいてくる気配を感じた。段々と大きくなるひそひそとした話し声に、諦観したような心地で目を瞑る。安っぽい音がして、誰かが向こう側でロッカーをよじ登っているのだと分かった時、頭上から水が降ってきた。
(冷たい)
熱が下がっていくような気がして、向こうからしてみれば不本意なのだろうが気持ちがいい。自ら浴びるような自分の体勢がおかしかったのか、さらに大きな笑い声が上がった。それが終わって、ようやく目を開いて視線を落とすと、手の中にあったルルーシュのノートの、汚らしい言葉に上塗りされた規則正しい字が、さらに歪んで読みにくくなっていた。
(あぁこれだけでも庇えばよかったのに)
じっとりと濡れて肌に張り付く制服をよそにそんなことを考える。たぶん、彼に見られれば怒られるのだろう。ついで、また大きな音が鳴って横を見ればバケツが転がっていた。古典的だ、小学生の頃に一度だけやられたことがある。あの頃の自分は、乱暴者を絵で書いたようで、その上現首相の息子という複雑極まりない子どもだったから、周囲から意味もなくよく疎まれたのだ。
「サルは学園から出て行け!」
どこか揶揄するような含みを持った、必死さのない、ただ遊んでいるだけの罵倒だ。集団のようで、後ろから大きな笑い声がしている。あぁ子ども頃と同じだ。たぶん自分の惨めな姿に笑っているのだろう。なんて安っぽい。そういうところまで、まったく同じだ。しかし、その分だけここが平和なのだと信用をより深くする奇妙な卑屈さはあの頃とまったく違っている。きっと、あの頃なら無闇に暴れて相手に大怪我をさせ、ふんぞり返って悪態づいただろう。それが許されていたし、自分の中でも至極当然のことだったのだ。今はばらばらとした足音が去っていくのを耳に入れながら、ルルーシュから借りたノートをロッカーの汚されていない部分に置き、まずバケツを拾う。少し考えてから、上着を脱いでハンガーに掛けた。そして辺りを見回して、掃除ロッカーを探す。ノートは、なくしてしまったのだと謝ればいい。彼は許してくれる。さぁ後は、早く、早く
「来てたのか、スザク、」
今最も、聞きたくなかった声が静かなこの場所によく響き、そして息を呑んだ音が聞こえた。彼は濡れ鼠の僕とは正反対に、きちっと制服を身につけ優雅に立っている。けれど僕の姿を確認し恐らく状況を掴む、すると冷静そうなその深紫に炎を点した。怒っている。そうだルルーシュは、彼は、よく怒る人だ。熱のせいか上手く回らない頭で、どうにもとりとめのない事を考える。こちらへ近づくとすぐに、ルルーシュは自分の上着を脱いで僕に着せようとした。慌ててその手を跳ね除けると、強引にまた突き出され仕方なくそれを腕に抱えることになった。
(あぁ、まずい)
熱のせいなのだろう、目の前がわずかに霞み、不服そうに自分を一瞥したルルーシュが歪んだ。少しぼうっとして、そんな間に目の前からさっといなくなったかと思えば掃除用具を揃えてすぐに現れた。手際がいい。それらを一度床に置くと、僕の腕を掴んで引っ張る。彼は、一言で言ってしまえば非力な男だった。何度かこういう風に引っ張っていかれたことはあったけれど、それは自分に彼に付いていく意思があったからだ。抵抗しようと思えばそんなことはいくらでも可能で、だから自分はこの後起きたことに酷く驚いてしまった。
「え?」
体が、揺れたのだ。ぐらりと、前につんのめるようになって、それをどうにかこらえる。有り得ないはずのことだった。何より驚いていたのはルルーシュで、しばし僕のことを呆然として見つめ、そして濡れるのも構わず腕をしっかりと持って、額に手を当てた。その仕草に、どこか絶望のような感覚を覚えて、同時に期待するような何かが心に沸きあがる。ルルーシュは、僕の額に当てていた手を下ろし、もう一度今度は自分の額に手を当て、そしてまた僕の額へそれを戻した。濡れた前髪が張り付いて、計りにくいのかもしれない。
「お前、熱があるだろう」
奇妙な間が空いた。その間に、自分は落とされたような気がした。微かに思い出したのは、数日前の礼拝堂での彼の言葉や態度だ。今の彼の目はなるほど、確かに不安や心配で揺れていて、それは紛れもない愛情で、数日前を境に変わることはなかった。熱に浮かされながらも、きちんと嬉しさと同時にどこか億劫な気持ちになった自分はやはり酷いやつだ。認めながらも従うように、先ほど彼からの上着を押し返したのと同じで、「そんなことはない」と言おうとして、けれどやはり熱のせいなのか。一瞬の逡巡の後に「少し朝から具合が悪かったんだ」と肯定の返事をする。
(しょうがなかったんだ、彼を誤魔化すことは僕には難しい)
熱にうかされた自分の頭に言い聞かせ、彼が何の躊躇いもないかのように自分の背に手を回すのを霞んだ視界で捕らえた。より近づいたルルーシュが、大きな深紫の瞳で僕を見る。
「クラブハウスへ行こう。ここでは、倒れるなよ。俺じゃお前を運んでやれないから」
眉を潜めた彼の言葉に、僕は従順に頷いた。手の中にあった彼の上着は、いつのまにか自分の肩にかかっていた。それがいつだったのかもわからない。ただ背中にある手のひらが温かくて、そこから布越しに熱がじわりと広がっていくような気がして、それが嬉しいのか何なのかもよくわからない。ルルーシュは、促すように段差を登らせると、ふらふらとした足取りで廊下を歩く。それは出来うる限りに、僕に気を遣っていることがわかる仕草だ。
(きっと、ナナリーにするみたいに、看病してくれるんだう)
そこまで考えて、彼の問いを肯定した自分は、熱に浮かされていたのではなく紛れもない打算によるものだったのかもしれないと思った。自分の中の、期待に従順だっただけなのでは。熱に浮かされた頭は、一度思いついたそれにどんどんと侵食されていく。救いを求めるように彼の瞳を見ると、それに気が付いたのか、僅かに嬉しそうに、けれど静かに「大丈夫だ」と言った。お前なら、すぐに治るだろうよ、と。