クラブハウスに着くと、ルルーシュはまず僕をシャワールームに突っ込み、僕が脱いだものを片っ端から洗濯機に放り込んでいるようだった。僕はまるで逆らうこともなく、飼い犬のように従順に言われたとおりにシャワーを浴びていた。ブォン、と何かが唸るような音がしてそれが暖房器具だと分かった時、改めて彼は世話の行き届いた人だと理解した。その後、洗面所の扉が閉じる音がして、着替えを取りにいったのか、それともロッカーの掃除へいったのか、熱でふやけたような使い物にならない頭で考えた。浴び終わって、シャワールームの扉を開けると流れ込んでくるはずの冷気はなく、ただ生暖かさだけが身を包む。目の前には、着替えが用意されていた。まったく気がつかなかったのは、やはり熱のせいなのだろうか。どうにも上手く作動しない頭でそんなことを考えながら、置かれていた衣類に身に着けていく。着終わったところで、扉が音を鳴らした。入ってきたルルーシュは僕がシャワーを浴び終わっているとは思っていなかったようで、目が合った瞬間に咄嗟に背中に何かを隠す。そして少し俯きながら、ひっそりと声を出した。
「…あったまったか?」
「うん」と相槌をうつと、顔を上げて笑顔を見せてから、後ろに何かを隠したまま再び去ろうとするような仕草を見せた。小動物めいたその行動にくすりと笑いながら、シャツが捲くられ少々ペンキの汚れがついた細い腕を掴む。作り物めいた真っ白な肌に血のような色が浮き出ている様は、B級のスプラッタ映画を観ているような気分にさせた。ぐい、と引っ張ると逆らえなかったのか隠していたものがばさりと床に落ちた。ルルーシュが慌てて屈んで、それを拾う。止めようとしたけれど、急に動いたせいか立ち眩みがしてそこにただ立っていることしか出来なかった。
「ごめんね、せっかくとってもらってたのに」
「お前が謝ることじゃない」
冷たい口調ではあったが、そこにあるのが紛れもない優しさであることはひしひしと感じられている。彼はどこか乱暴な仕草で、僕の眼から隠すようにそのノートをゴミ箱に放り込んだ。その横顔がどこか苦しそうで、嬉しいような悲しいような、複雑な思いに駆られるのはいつものことだ。人はきっと彼のことを複雑だと思っているのだろうけれど、一旦心を許せば、彼は驚くほど無防備に感情を露わにすることがよくある。それこそこちらが不安になるくらいに。
「仕返しくらい、したらいいだろう」
少し投げ遣りなような口調で、そう言いながらルルーシュは僕から目を逸らした。うって変わって、まるで子どもっぽい仕草だ。まるで叱られる寸前に、苦しい言い訳を展開する子どもみたいな。比較的に、彼は怒ることに対して素直なのだ。「そんなの、駄目だよ」と、諭すように言ってみるけれど、彼は怒りの宿った視線を溶かすようにしながら、こちらに再び向けただけだった。
「馬鹿だな、お前」
呟くようなその言葉は、ほとんど呆れで出来ているようだ。
「酷いな。ルルーシュだって昔、誰のことも殴らなかったじゃないか」
「理由が違う。それに今なら、別の方法で仕返しするだけだ。何なら今回のお前の分も…」
少しだけいたずらっぽくなった口調や表情に、非難の眼差しを向ける。父の死の真実を知った後ならばきっと余計に彼が逆らえないことをわかっているから、自分は意地が悪いかも知れない。ルルーシュは「冗談だよ」と肩を落とした。
「お前がそれでいいって言うなら、何もしないよ。俺にはそんな権利はないからな」
言いながら、ルルーシュはかがんで洗面台の下の棚を開き、一枚のタオルをそっと取り出した。まるで正論のようなそれが宙に響き、彼の怒りの宿った目と不釣合いなその言葉は、けれど彼らしいもののように思える。そうだ、正論だ。彼はあの後も、ずっとそういうことを口にして、優しい顔で笑って、僕の為の怒りを抱いてくれる。そっと、作り物めいた白い手が伸びて来て、僕にふわりと手にしたそれを被せた。そう、こんな風だ。怒りを抱きながらもやさしい。そして、これはきっと僕には見合わないものだ。熱があったって、それくらいはわかるのだ。彼はそのままくしゃくしゃとかき混ぜて、くすぐったいと微かに笑いながら抗議したけれどその手を止めない。
「くすぐったいよ、ルルーシュ」
けれど返答はなく、熱っぽい頭に彼の手の感触が、布越しに広がっていくだけ。これは酷くやわらかい時間のような気がする。ルルーシュは、黙ったまま、そっと手を止めると「風邪が酷くなるから、乾かすのは部屋でやろう」と言って、僕をじっと見た。従順な飼い犬のように、うんと頷くと、彼は少し嬉しそうに笑う。世話を焼くのが、楽しいのだろうか。
「ほら、行くぞ」
客間が暖めてあるから、と言いながら、彼は僕の腕を引っ張った。今度は、前につんのめるようなことはなく、僕はその手にただ従おうとした。随分と細い、非力な手だ。ひょっとしたら、宙を切るだけで誰かの庇護欲をそそるであろうくらいに。そして、こんなんじゃ何も出来ないのではないかと疑ってしまう、くらいに。反して、引っ張れている僕の腕は、細身ではあるが、彼のような作り物めいた曲線は描いていない。グッと掴む細い手にさらに力を込められるが、熱でふらつく足元をそっと堪える。すると、おかしいと思ったのかルルーシュが振り返った。
「ねぇ、ルルーシュ」
呼びかけた声は、静かな水面に石を打ったかのような、静寂にぽつりと呼びかけだけが浮かび上がる。ルルーシュは、先を促すように、少しだけ首を横に傾ける、どことなく幼い仕草をした。まるで誰かの庇護を求めるみたいに。
「君が殴らないのは、非力だから?」
少しだけ、間が訪れて、そうして僕は真っ直ぐにルルーシュの眼を見た。そこにはもう怒りは当然の如く宿っていなくて、ただ呆然とした色があるだけだ。当たり前だ。恐らく、彼には理解できない質問だ。理不尽なことを、しているのかもしれない。だって、彼はきっと殴るなんて、そんな野蛮な選択肢自体を持ち合わせていない。それがただ単純に力の差なのか、そうでないのか、そんなことはわからない。ただもし僕が、僕が
「あまりはっきり言うなよ、スザク」
浮かび上がった笑顔は、まるで冗談に答えるかのように軽やかなものだった。やはり、彼にはわからないのだ。この後だって、庇護欲を誘うようなその手は、僕の看病のために使われる。そう考えると、目眩がした。世話好きで、ナナリーの看病できっと手慣れているのだろうから、非の打ち所なんてないんだろう。僕だって、しようと思えばきっと誰かの看病くらい出来る。この手で、することはできる。でもそれは、目の前に居る彼とはまるでかけ離れた行為のように思えてならない。
「スザク?」
膝ががくりと抜けたような感覚が走る。ルルーシュの手が背に回るのを感じて、布越しに感じた冷たさに思った以上に熱があがっているのがわかった。頭が朦朧としてきて、けれど頬に何かが伝っている感覚は明確に感じ取れた。何を泣いているんだろう。馬鹿だ、自分は。どんどんと、意識が手から離れていくようで、それを自分も歓待しているかのようだ。ルルーシュの声がもやがかかったようになる。でも、必死に呼びかけてくれている。そうだ、だから、これは言ってはいけないのに。なのに、どうしてか、それは自然と溢れ出てしまっていた。
「僕が、もし、もっと非力だったら、父さんは死ななかっただろうか」
ルルーシュの瞳は、目の前だった。返答はなくて、だから僕は呆然と考えた。熱に浮かされた頭で。それでも際限なく浮かんでくるのは、ただそんなことを考えても意味はないと言うそれだけだ。きっと熱がなくても同じこと。でもきっと、ルルーシュなら、ナナリーなら、殺さなかった、いや殺せなかった。そのはずだ。起こる筈のなかったことを夢想して、結果を捏造するのなんて馬鹿らしいと分かっているけれど、考えずにはいられなかった。なんて酷いやつなのだろう。もし自分が、ナナリーのように足が不自由だったらなんて、そんなことを。
「安心しろ、スザク」
ふと、熱を持った頭に、聞きなれた声が響いて、そうしてそこら中を侵食していく。やさしいのに、何故か絶対的な力を持っているかのようだ。そして目の前にあるすみれ色だけが、じっと不釣合いなまでの冷静さを保っている。
「暴力だけが人を殺すんじゃないよ」
その言葉が、自分を癒すために発されているのかどうか、その頼りは彼の表情だけだ。ふと、僕は頭の中で反発を感じて、ちがうと口に出しそうになる。けれど既に顔に出ていたのか、ルルーシュは今までよりもっとやさしい顔をした。
「嘘じゃない。非力な人間だって、人を殴れない人間だって、人を殺せるんだ。暴力よりも、もっと残酷で人の心をえぐるような性質の悪い方法で。だから、お前たちだけが悪いんじゃない。俺だって」
瞬間、背中に寒気が走り、まじないのような言葉の羅列が、するすると体の中へ入り込んでいたのだけれど、それがぷつりと途切れた。見れば、目の前のすみれ色のすぐ後ろに閉じたままの扉が迫っていて、そして彼の口元は自分の手で押さえつけられている。いつのまに、と息を呑んだけれど、見開かれたルルーシュの眼はすぐにまた細められてしまう。少し苦しそうで、僅かに目じりに涙が溜まっている。
(何をしているんだ、僕は)
でも、止めなきゃならないと、思ったのだ。理由は熱のせいで上手く探ることなど出来ないけれど。でも嫌だった。だって、頭はよくたって非力なはずの君に、知っているだけの君、何が出来るって言うんだ?これ以上、複雑回帰なことを彼の口から言われれば、僕はきっとキャパティシィオーバーで壊れてしまうだろう。彼の言葉は、いつだって正しいような、そんな絶対的な響きを持ち合わせているからこそ。ゆっくりと手を下ろすと、ルルーシュはわずかに咳をして、僕を見た。謝らなくちゃいけないと思ったけれど、何故か口も体も動かなかった。
「熱で混乱してるのか?」
そんな自分の姿がおかしかったのか、ルルーシュは肩をすくめながら聞いてくる。その仕草は、彼によく似合うものだ。「そうかもしれないね」と微かに笑って見せると、眉を下げて困ったような顔をされた。きれいなすみれ色の瞳は、恐らく僕に対する心配でぐらぐらと揺れている。そういう、酷く平和的な類の感情で。
(ルルーシュ、君には、きっと何も)
そう、僕はその時、まるで予想もしていなかったのだ。目の前にある彼の瞳その奥、そこに乱暴者の僕が行使するであろう全てのプロセスやある種の努力を省略し、更にはそれを上回る万能さを持つ力があるなんてことは。
090329
確かる/る/く/るでの福山さんの
「フレイヤ発射はスザクの元々の暴力性もうんぬん」という発言に萌えてだいぶ前に書いた覚えが^^