ゆっくりと振り返ると、重そうな外套に身を包んだ人物が無表情で立っていた。トレーに載せられているのは、柔らかそうなロールケーキだ。洋酒とバニラエッセンスの甘い香りがバランスよく鼻腔をくすぐり、呼応するように体の中心がきゅっと縮まって、私はいささかの空腹に気づいた。
「殿下からの差し入れです」
歴史上、王が臣下に褒美を与えることやその労を労うことはあれど、それが手作りのケーキだなんてことは珍しいに違いない。恭しい仕草で皿が置かれ、その人物が私を振り返った。皇帝の唯一の騎士であるその男は、理由はよく分からないが何故か時折給仕の真似事をするようにして現れる。最初は、私に何か尋ねたいことがあるからなのだと気を張っていたけれど、その内に彼が単に誰かに頼まれているだけであることに気が付いた。けれど、それでもどこか気まずいのは変わらない。私は「ありがとう、」と低い声で呟いて、パソコンの画面に向かったままでいたが、横にいる人物が気がかりで頭の中はまったく集中してなどいなかった。仕方なく、フォークを手に取りそのロールケーキのひとかけらを口に入れる。
「…おいしい」
大して甘いものに詳しくない私でも、それが結構なお手前のものであることはよくわかる味だ。香る洋酒は上品さを際立たせるし、生地はとんでもないくらいに柔らかい。けれど、いかにも無意識の内に言ってしまった、という風な呟きに、男が呆れたのか苦笑を漏らしたようで、私はふいに恥ずかしくなって、そして腹が立った。
「すごく長い名前がついてたんだけど、覚えられなかった」
場をとりなすように呟かれた言葉が頭の上から降ってきて、余計な気遣いだとまた少しだけ腹が立って、そして数年前と変わらない自分の狭量さに、また怒りを感じる。見上げれば、少しだけ困ったような顔をしてスザクは立っている。それを見ると、自分の狭量さと同じく数年前から変わっていないと思う。学園にいた頃、スザクは私が彼を嫌っていることを知っていたから、同じ空間にいて目に入るたびに、どこか困ったような顔をして視線を逸らしていた。
「ねぇ、どうして、いつもスザクが持ってくるの?」
彼の眉は、さらに潜められて、そして解かれた。質問の意味を理解したようだ。そして、暗に私がそれを嫌がっていることも、同時に察したようだった。
(少し申し訳なさそうな顔をしたから、)
当の私は、別段、本気で嫌なわけではないのだけれど、ただ自分が彼の顔を見ると何かを問い詰めてしまいそうな気がして怖いのだ。厳しい表情をしてくれているのなら、臆病な自分にそんな心配はなくなるのだけれど、彼は明らかに、どこか自分に気を遣っていたからこそ、余計にそう思ってしまう。そして、もうひとつは罪悪感だった。ナンバーズという、人種が違うというだけで彼を嫌っていたことへの。この枢木スザクという人物は、まるで私の醜さや狭量さを見せ付けるかのような存在だ。だから、同じ空間にいることは苦しい。今だって、眉を下げているその表情で、どうしても責められているかのような被害妄想に陥ってしまう。
「僕はどうせキャメロットには行かなきゃいけないから、ルルーシュが差し入れを作ると頼んでくるんだ。その後は、まぁ、皆忙しそうだから」
濁すように、スザクはそう言った。「そうなんだ」と、大したことがないような返事をして(私は、狭量で臆病だ、本当に)、画面に向き直った。それを合図として彼はこの部屋から出て行くと思ったのだけれど、予想外に足音は聞こえず私はまた集中する気をなくしてしまう。
「スザク、何か用事があるなら…」
思わず語気が荒くなってしまい、慌てて口を噤んで私はスザクを見た。当然のように彼は怒ってはおらず、内心ほっと息を落としながら、また自分に絶望する。繰り返される慣れきったそれに痛みを覚えながら、私はじっと堪えて、冷静に彼を見上げた。スザクは、まるでそれを待っているかのように、どこか苦しげに頑なに押し黙っている。
「何か、用事があるの?」
その時、彼の表情から、数年前のような困惑が消え去った。
「この間、頼んだだろう僕に。持ってきたんだ」
そう言うと、彼は胸元から何かを取り出した。それは純白で、どこか色あせていて、けれど細かな装飾は確かな高貴さを感じさせるものだ。あぁ、と思い当たった。まさか本当に、持って来るだなんて思わなかった。恭しく、優しい手つきでそれを持った彼はそれを私に差し出した。一瞬だけ逡巡したが、私なんかが触ってはいけないと思っているのはきっと彼も同じであろうことを知っていたので、丁寧に受け取った。
(欲しかったの、かな)
自分のことであるのに、よくわからなかった。ただ、わかるのはこれは私の物でなく、スザクの物であって、同時にこれはユーフェミア様自身ではなく、単なる騎士としての証でしかないということだ。
「ルルーシュの騎士になったのに、持っているのね」
意地悪だとはわかってはいたが、彼がよくこれを、掌が切れるほど握り締めていたことを知っていて、そしてそれをどこかで羨んでいたから言わずにはいられない。自分とスザクのどちらもその姿は滑稽そのものだったのだろうけれど、そうせざる得なかったのも確かだ(今だって、たぶん彼と私の姿はどこか滑稽で、弱弱しくて、情けないのだろう)。スザクは私の意地悪に、眉を潜めることはせず、ただ淡々と受け答えた。
「死なないために必要だった」
その言葉は、硬質な響きを持って私の胸に届く。何故、利用していたとは言わないかと口に出しかけたけれど、それはお互いを侮辱するような気がして口を噤んだ。同義ではあるのだろうが、その言葉を使わないことは死んでしまった愛しい彼女への悼みであり、自分へのせめてもの慰めだ。そういう気持ちが、私にはよくわかる。変わりに、じっとスザクの目を見た。険しさの映るそこには、けれど大きな覚悟があるのだろう。途端に、ちりちりと胸に焼きついた劣等感は、きっと一生私に付き纏うものだ。
「ねぇ、それで今度は、ルルーシュが必要なの?ゼロレクイエムが?ルルーシュを殺すことが?ゼロになることが?」
彼の瞳の中の覚悟を確認するかのように、問いを重ねた。そしてそれに眉を潜めることもなく、「あぁ」とただ硬く頷いた彼に対して生まれる劣等感と向き合うかのようにだ。少しの間、沈黙が流れる。私は、受け取ったこの証を強く握り締める。これは、ユーフェミア様自身では決してない。けれど、スザクはまるでこれを彼女の証として扱っていたかのようだった。これは騎士としての証であるのに。でも、私にはその気持ちが分かったのだ。だからどこかで、滑稽な彼に安心を得ていた。なのに、今の彼の中で、この証は多少なりとも形を変えて来ているのだろう。幻想は消え、彼の前には膨大で綿密な作戦が広がる。
(私、やっぱりあなたがうらやましい)
心の中で呟いて立ち上がると、スザクは少し驚いたように身を引いた。椅子のキャスターが、後方へところころと転がっていく。私は、普段では考えられないほどに胸を張って、大きく息を吸い込み、背筋を伸ばした。「ニーナ?」と戸惑うような声が掛けられる。それを完全に無視するかのように、視線は合わさずに言葉を重ねた。
「スザク、そこにいて、そこで見ていて」
誰かが、息を呑んだ音が聞こえた。他の人の物である証、それを自分の物かのように恭しく包み込む。視線を落とし、そして目を閉じる。思い出すのは、輝かしい記憶だ。彼女にもらった言葉や、笑顔。眩し過ぎて、分不相応だとわかりながらも、求めてやまないものたち。甘美な記憶だけが、それだけが、私の宝物だった。
「さようなら、ユーフェミア様」
他人の証に幻想を重ねて、私の妄想で塗り固められたそれを大事に唇に引き寄せ、キスを送る。やはり私は狭量で、臆病で、滑稽だ。そこは変えようがない。でもきっと、他人の証にあなたの幻想を重ねるのは、これで最後だ。