部屋に戻るまでの間中も、ずっとどこか神聖な空気に、身を食い尽くされたような感触がして罪悪感が募っていた。恐らく、あの少女は自分のことを羨ましいと思っていたはずだ。表情に乏しいけれど、そのせいで色濃い感情が宿った瞬間がわかりやすい人であるからすぐに察することが出来た。彼女は、強かった。自分の浅ましさを認め、それを乗り越えようと戦っているのだ。いくら誰に恨み言を言っていても、傍から見ればそれが情けなく狭量に見えたとしても、恐らくは何かを変えようとしていた。その姿に、思わずこの騎士章を渡すべくはこの少女なのかも知れないと思い、そんな事を考えた自分がただ情けなくなった。これは象徴でしかない、主はもういない。もう誰もユフィの騎士にはなれないのだ。口に出してしまわなくてよかったと、心から思う。言ってしまえば、彼女はきっと「いらない」と告げてくるだろう。その目にはきっと光が宿っていて、そして彼女はその言葉は僕のうっとうしい同情だと勘違いして、どこか嫌味な視線を向けるだろう。そこまで想像して、本当によかったと息を吐いた。
(そんな目を見れば、きっと情けなさで身動きが取れなくなる)
こんなことを考える行為でさえ、情けないことに違いはない。けれど今、思考止めるようなことは許されないのだから。
(本当に、何も変わってない)
胸に仕舞った騎士章をもう一度取り出し、ふとこれの行く末を考えた。ゼロになる頃には、どうやってでも手放すべきそれを、どうすればいいのだろう。ユフィの墓に埋めればいいのか、それとも、もっと別の
「おい、」
掛けられた声と自動ドアの開く音に、びくりと肩を揺らし手の中のものを慌てて小さな棚に仕舞おうとする。けれど上手くいかず、ただ手が棚に当たったガタリ、という情けない音だけが鳴り、振り返った。そこにいた人物に、最悪の状況は免れていたことを知って幾分かほっとしながら、しかし或いはこれは最悪の状況なのかも知れないとも思う。C.C.は、廊下から嘲笑うかのような高慢な微笑みでこちらを見ていた。ルルーシュも、よくこういう悪女のような表情をしていたから、やはりこの二人はよく似ている。
「まるで熟年夫婦の、妻に浮気がばれた夫のような反応だ」
やたらと熟年夫婦を強調して吐かれたそれに、混乱する脳内で反論を掻き集めたが上手く言葉に出来ず、そもそも気分としては近いのかも知れないとすら思ってしまう。なんて馬鹿だ。負い目を感じる必要など、きっとルルーシュが僕にして来たことを考えれば少しもないはずなのに。
「馬鹿なこと言わないでくれるかな」
結局、言えたのはこれだけだ。彼女は僕の混乱を悟ったようで、また勝ち誇ったように笑ったけれど、それ以上は何も言わない。恐らくルルーシュに対してだったらもっと何かを言ったのかも知れないが、彼女は僕に関して言えば嫌に引き際がよくて、そこが逆に恐ろしいところでもあるのだ。しかし、彼女の引き際のよさなんかより、今現在恐ろしいものが現れてしまった。
「おい、何してるんだ」
今度こそ僕は固まり、彼女はその反応を明らかに楽しんでいた。そして次に起こるであろう、稀代の悪逆皇帝の何らかのアクションを期待するように、目を光らせている。けれど、やはり僕は固まるばかりだ。ルルーシュだけが、何も知らないように訝しげに眉を潜める。「どうしたんだ?」と、そこには何の含みもなかった。そして息をほっと吐こうとしたとき、見物人である少女の目線が鋭く輝いた。
「昼ドラの見せ場を堪能しているんだよ」
「昼ドラ?」
「ほら、だからさっさと枢木に詰め寄れ」
くくっと喉の奥で笑う声が、微かに混じり彼女は確実に余計でしかない台詞を吐き、細い指でルルーシュの背中をそっと押した。凪いだ体は、部屋の中に滑り込み、僕の前に立った。明らかに何もわかっていない目が、頭の先から徐々に下へと視線を移動させる。空気が凍っているように感じられて、あまりにも気まずくて、そして少女の視線がうっとうしくて恥ずかしくて、浮気がばれた男の気持ちはこんな風なのだろうかと否定したはずの先刻の彼女の例えを無意識に肯定する。あぁなんでだ、僕は何も悪くないはずだ。なのにこんなにも引き摺られている。ふと、彼の視線が止まったのは僕の手の中だ。ようやく気づいたのか、ルルーシュは薄い笑みを浮かべて、後ろを振り返った。
「妙な演出をするなよ、魔女」
「礼を言うんだ、こういう時は」
せせら笑った彼女は、嬉しそうに鼻歌を歌いながら身を翻し、何処かへ消えてしまった。自動ドアが、些か不気味な音を立てて閉まる。明らかにほっと肩を落とすと、明らかにルルーシュが肩まで使って僕のことを笑っていた。それに子どもっぽいとわかっていながら、不服そうな態度を示すと、呆れたように息を吐いた。
「精神的な問題で言えば、別にお前は俺の騎士ってわけじゃないだろ。だいたい、何であいつのペースに巻き込まれているんだ」
こちらを安心させるような口調に、咄嗟に湧き上がったのは僕が悪いわけではない、とかそういう類の感情だった。それはルルーシュが僕にしてきた事を考えての話だ。相手に対する罪悪感が消えて、そして僕はこの人物とは対等だという、自負心のような自信のような感情を芽生えさせた。そういうあらゆる強さに繋がるものが、全て誰かとの関係の上で成り立っている自分が、ルルーシュと比べて酷く弱いことはわかっているのだけれど。
「ごめん」
様々な意味含んで、思わず口から滑りでたのであろう言葉だった。けれどルルーシュはまだ笑いを止めずに、淡々と受け流しただけだ。それに対して、些かの悲しさを抱いてしまうのは、仕方がないのだろう。この悲しさは、きっと彼に好意を寄せる者ならば誰もが一度は感じる感情だ。遠い場所にいるかのような、掴みどころのなさに誰だってきっと思う。美しく整った笑い顔を、じっと見つめる。するとルルーシュは視線に気づき、笑うことをやめて、白い皇帝服に包まれた腕を上げた。細い指が丁寧に自分の手を絡めとって、酷く神々ような、どこか嫌味なような妙な笑みを浮かべている。
「生きるために必要だったんだろう?」
その言葉を聞いて、さっと背中に悪寒が走る。
(彼は、聞いていた?)
先ほどのニーナと自分の会話、そこで自分は言った気がした。けれど、きっと強張ったはずの僕の顔を見て、ルルーシュは表情を変えずにただ何かを問うような仕草をしただけだった。言外に、どうしたんだと告げている。その顔に、またほっと肩を落とした。それはそうだ、彼が聞いているはずはないし、必要もないし、必要がないのにそんなことをするような短慮な人間ではない。僕の様子に違和感を感じているのか、おかしそうに「本当にどうしたんだよ」と漏らす彼は、僕の手をとったその指の力を、少しだけ強くした。生きるために必要だったと彼が言うことが出来たのは、彼も似たような感覚を妹に対して抱いていたからなのだろう。
(生きる、ために)
繰り返したそれに、引いたはずの悪寒が、再び僕の背中を駆け巡る。
「おい、スザク?」
また強張っていたのであろう、僕の顔を覗き込む僕の手に触れていた指を離していた。その顔は、先ほどよりも真剣に眉根を寄せているように見えて、少し馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまう。いや違う、馬鹿馬鹿しくなったのは、自分自身だ。酷く消極的で、答えを出せない自分に対して。
「君は弱いくせに強いんだな、って実感してたんだよ」
誤魔化すように笑うと「弱いというのは、ナイトメアの操縦技術のことか?」と、どこか不服そうに、けれどおかしそうに言うから、本当は違うのだけれど頷いておいた。すると彼が不機嫌そうに、ふいと顔を背けたのでもしかしたら本気だったのかも知れないと思った。彼はよくわからないところで怒るし、予測をするのは難しいのだ。顔を背けたまま、彼は自動ドアの前に立った。「速く準備をしろよ、」とおざなりに声を掛けられ、硬い返事をした。そして外へ出て、再び扉が閉まる直前、また振り返る。
「スザク、さっきの」
「何?」
憂うように視線を一度落とし、そして再び顔を上げた彼の表情は、悲しいほどに清清しかった。
「あれを、大事にするのは構わない。だが、いやだからこそ、恨みをぶつけるのも憎しみをぶつけるのも、殴るのも傷つけるのも俺にしておけ。それは汚すことなく、大事に取っておくんだ」
いいな?と確認するように、強い目線を送られた。それを見て、守るつもりなのだと思った。僕は、ルルーシュと同じように彼や世界に対しして来た所業があるから、何も言わない。彼も同じだ。第一、その思いは嘘ではないのだ。僕と同じで、この世界の守りたい人たち全てを守るように、死んだ彼女のことも守りたいのだろう。その傲慢なまでの曖昧な高潔さが憎くて、けれど答えはひとつであることはわかりきっていた。
「あぁ、わかってるよ」
強い返事に、彼は満足したように去っていく。ほとんど、条件反射のようなそれだが、嘘ではないのだ。そして、言われたとおりに大事に仕舞おうとして、手の中のものを見る。純白の騎士章。思い出すのは、ずっとうつろな目をしていた少女の神聖な儀式だ。途端に、また背中に悪寒が駆け巡る。手に入れている自信や、自負が曖昧になってしまうくらいの恥ずかしさが、湧き上がる。
(生きるためだなんて、言わなかったんだよ、ルルーシュ)
僕が彼女に告げたのは「死なないために必要だった」というただその一言だ。僕は生きたいのではない、死にたくて、死にたくないだけだ。罰されたくて、許されたいのと同じように相反している。ルルーシュは、彼は、もしかしたらわかって言ったのかも知れない。僕の自負を傷つけないように、言い換えたのかも知れない。そうだとしたら、なんて自分は馬鹿馬鹿しいのだ。何も変わっていない、いつだって、誰かに何かを委ねている。今も、騎士章を手の平の皮が破れるほど強く握り締めている。
(罪と向き合う。自分のした事を、決して忘れない。誰かが自分を恨んでいることも)
そして、ゼロになる。彼が示してくれた、その道をゆく。でもその頃にはきっと、騎士章の変わりに漆黒の仮面を、壊しそうなほど力を込めて抱えるのだろう。苛立ちも不甲斐なさもぶつけるようにして、醜い自分は、生きるために死ぬのであろうルルーシュに委ねる。情けなさ恨んでも、誰よりも強い矜持をもつ彼を憎んでも、きっと行き着く場所はひとつなのだ。
100219
似たような話ばっかり書いている気がする