花束なんて買ったのは、初めてだった。
昨日、あいつが交通事故に遭ったという一報を塾でたむろしていた女子生徒達から聞いた。結構酷い怪我らしい、と。それで俺は常人の如くお見舞いに行かなければ、と考えあいつと同じ学校の女子生徒をとっ捕まえて入院先の病院を聞き出せば(何故女子生徒なのかと言えば、男子がそんな細かいことを覚えているはずはないと考えたからだ。偏見だとしても少なくとも俺は覚えない)意外に近場だったので拍子抜けして、次の日、つまり今日、残暑の日差しが照りつける中、汗だくで塾をさぼって学校帰りに此処へ向かってきたというわけだ。ちなみに徒歩で。受験前の高3のくせして、なかなかにいい度胸かも知れないと我ながら思う。でも俺は正直言って、現役合格なんて夢は既に捨て去っているから、同級生がピリピリとするこの現在、割と解放感に溢れていたりする。夏を制する者は受験を制するなんて言葉があるのだから、その夏を制せなかった俺は受験も制せないだろう。つまりは、特にさぼることに対しての抵抗感はないのだ、俺は。だから別にどうして見舞いに来たいというわけではない。そう言い聞かせながら、病院の薬品くさい廊下を小走りですり抜ける。なんだか、恥ずかしくてたまらない。俺は今まで病に臥せった友人の見舞いに来たことはなく、もちろん花束を買ったこともない。ようは勝手がよく分からない。見舞いなんて、もしかしたら塾さぼってまで来るものでもないのかもしれない。そう考えると、こうして花束なんか持ってのこのことやって来ている自分が恥ずかしくてたまらない。だって、花束とかって正直ありえなくないか?いやでもこれは、母親から見舞いに行くと言ったら無言で千円札を二枚差し出されたのだからしょうがないだろう。えークサーいとか言われたところでどうすることも出来ない。割と訝しげな目で(何でだかはわからない)、けれどにこやかに挨拶をして過ぎ去っていく看護婦さんが意外に皆ごついななんて考えて恥ずかしさを紛らわしながら、俺は302と書かれた扉の一番端に、よく見知った名前を見つけた。少し安心したのは、もう花束を持って歩く必要がないからなのだろうか。除菌用のソープの存在にも気付かず中にずかずかと入ると、談笑していたじいさんやばあさんが奇異の視線を持って、一斉にこちらを見てくる。何故か看護婦さんに見られるよりも恥ずかしくない、というより気にならない。たぶん、年のせいだ。やっぱりなんだかんだでナース服ってのはなかなかいいもんなんだろう。日差しが窓の向こうで容赦なく照り付けているのを眺めながら、6つのベットを見渡す。5つは此処はどこの娯楽施設だというくらいに開放的、そして一番隅っこのベッドだけ、薄黄色いカーテンがカッチリと閉じられている。じいさんばあさんののベッドをいちいち覗かなくたって、一発であそこにあいつがいるとわかるこの状況。あまり極端な絵図に、俺らしくなく思わず苦笑した。
「おーい、元気か?」
ノリが軽すぎるだろうか、なんて思いながら黄色カーテンを滑らせるとそいつは不機嫌そうな顔でじっと手帳を見つめていて、こちらを見た瞬間に信じられないほどびっくりした顔をした。目が見開いてる。それを見た瞬間、思った以上に気が抜けたのは意外と心配していたからなのだろうか、というかそうだったようだ。まったく気がつかなかった。単なる友人が怪我をしたのだから!という義務感でここに来たような気がしていた。もしかしたら、さっきあんなに恥ずかしいと思っていたのも、花束を持っていることとか友人の見舞いに来ていることとかじゃなくて、意外に心配している自分が恥ずかしかっただけなのかもしれない。だがそれにしても、こいつは驚きすぎじゃないかと思う。確かに見舞いをするほどマメなタイプでないことの自覚はあるが、俺だって心配くらいはするさ。だというのに「・・・なんで?」と、相変わらず目は見開いたままそう言った。そろそろ閉じてもいいじゃねぇの?というくらいだ。しかも、なんで、ってなんだ。見舞い以外の何がある。そう言ってやれば、そいつはまだ驚きを隠せないというように、でも頷いた。目は見開いたままだったけど。思えばこんなに驚いているこいつは、かなり珍しいかもしれない。どっちかと言えば、普段は俺が目を見開くことの方が多かった。まぁとりあえず硬直状態のそいつを眺めながら、こりゃあ駄目だと思って見回せば、既に小さい花束が大きめの花瓶に活けられている。うん、まあいいかと持ち前の大雑把さで自分が持って来た花束をそこに突っ込んでおく。たぶん、ちゃんと手渡しするのがいいんだろうがそんなこっ恥ずかしいことをする気はさらさらなかった。するなら彼女へだ、だろ?考えてみれば、見舞いに行くと言って千円札を二枚出したうちの母親は、相手は女子だと勘違いしていたんだろう。今更だけど。
「・・・なぁ、お前さ」
おっ、復活したのか?と思い改めてそいつを見れば、特に酷い外傷はなさそうに見えた。唯一、酷いと思ったのは包帯がぐるぐる巻きになって、固定されている右手だ。顔にも頭にも傷はない。誰だ、結構酷い怪我だとか言った奴は(まぁ噂が一人歩きしたんだろう)。それにしても、看護婦もこいつも何故俺を訝しげな目で見るのだろう。別段、何かおかしなことをした覚えはないのに。
「ユリ、はないだろ」
は?と聞き返せば、そいつは顔だけで後ろに置かれた花瓶を示した。活けられているのは、最初にあった野花だかなんだかよくわからない、細かい花が散りばめられたたぶん上品な感じの花束。そして横には大きな白いテッポウユリ。取り合わせがどうとかは別として、別個で見れば両方とも綺麗だと思う。もしかして、こいつがユリは嫌いとか?でも俺はそんなこと知らなかったし、というかこいつが花の種類に好き嫌いができるほど興味があるとは思えないし、そもそもただ咲いているだけのテッポウユリに罪はないのだからそんな言い方はないだろう。「別に、綺麗じゃん」そう言うと、そいつはまた信じられないという顔をして俺を見る。なんだ、これは?途端に、段段と焦りを感じ始める。何がなんだってこんなに責められているような気分になるんだ?信じられないという顔をしたそいつは、さっきとは幾分か違う風に目を見開いたままこちらにぽつりと宣告した。
「匂いがきついから、嫌がられるんだよユリは。だから、見舞い品にはタブー」
それだけ言い切って、すると今度そいつは俺の顔を見て大爆笑をし始めた。失礼な奴だ。「別にそんなこと気にするのお前だけだろ?」と言えば「常識だっての」と笑いながら返される。あぁそうか、看護婦さんからも訝しげに見られたのはこのせいか。どうやらそいつは腹を抱えるほどウケているようで、左手だけがそこに添えられている。いつもの通り若干苛立ちを感じながら、それでも短気な俺が脱力してしまうのはこういうことにさすがに慣れたからだ。そう、中学時代もよくあったこと。こいつはたぶん俺の数倍は物を知っているししっかりしているし器用だ。いつも兄さん面をしながら、事実俺はよくこいつに面倒を見られていた。その度に、こんなことも知らないのかとか出来ないのか、とかこいつは大笑いしながらよく俺のことをからかっていた。あぁもうさすがに慣れたよ、と息を吐きながらけれどやはり苛立ちがこみ上げてくるのでどうやら俺は成長していないようだ。ただし、怒鳴らなくなっただけましか。昔は、とうとう耐え切れず怒鳴り始めた自分にこいつは笑いを堪えながらごめんごめん軽いノリで、でも優しく謝って、終いには教えてくれたりだとか、なんらかの落ちをつけて俺の怒りを納めてくれていた。これだけ言ってみてなんだが、俺って相当こいつに迷惑かけてる?なんだか苛立ちを凌駕するほどの落ち込みと情けなさに見舞われて、また溜息をつきながらそいつを見ると、どうやらまだ笑いを堪えているようだ。
「笑いすぎじゃないんですかー?」
「いや、だっておまッ・・・まじでないってソレ!」
「どーせ無知だよ俺は!悪かったな!」
思わず語尾が荒くなったあたり、やっぱり自分はどうしたってからかわれるのが嫌いなようだ。凌駕されたはずの苛立ちが復活してしまった(やっぱり成長してないんだな、俺)。そいつは、目に溜まった涙を(それにしたって笑いすぎだ)左手で拭いながら、中学の頃と同じようにごめんごめんと、優しく謝った。ただし落ちはつかなかったが、さすがに高校生になったからなのか、喧嘩にはならずそこで俺の無知さを笑う会は終着する。まぁ、俺の無知さの落ちをこいつに求めるのもある意味じゃ理不尽な話だもんな。それからは、普通の通りそいつの容態の話だとかを始める。どうやら、事故ではあったが交通事故ではなく、学校の園芸委員で使っていたなんとかという機具に手を巻き込まれらしいということ知る(意外と女子も人の話を聞いてないんだな、とその時俺は思った)。道理で右手以外に怪我がないはずだ。そして、どうやら完治には3ヶ月ほどかかるらしく、俺と同じく夏を制せなかったそいつはすっかり現役合格はあきらめるつもりでいるようで(手帳を見ていたのはセンターまでの日数を確認していたからなのだと後になって気がついた)。別に右手使えなくても勉強はできるんだけどさ、やる気がそがれるだとかなんとかブツブツと言い訳がましいことを口にしている時点で、浪人決定だよお前。人のことなんて何にも言えやしないし、しかもこいつが浪人するのは俺よりもっと上の大学を目指してのことなのだからむしろ俺はこいつを尊敬すべきなのかもしれないが。まぁそれで、じゃあ俺も浪人仲間だからまた塾で一緒だな、みたいなそんなことを言うとそいつは何故か妙にそわそわとして、返事に時間がかかっている。ぎりぎりの間で「まぁよろしく悪友」とおちゃらけて言うそいつの顔が、逆光でよく見えない。別段、野郎の顔をそんなに見ていたいとも思わないので問題は特にない。ただそれでようやく、全面に夕焼けが広がっており、ああすっかりこんな時間かと、随分と話し込んでいたことに気がついた。そういえば、病院の夕食ってのは早いから早く帰って来い、と母親に言われていた。そろそろ引き際というところなのだろうか。
「じゃあ俺そろそろ帰るわ」
立ち上がると、白いテッポウユリが赤く染まっているのが見えた。いやしかし、改めて見るとなんてアンバランスな組み合わせか。我ながらなかなかのものだ。あぁでもここにはじいさんばあさんが他にたくさんいるし、じいさんばあさんてのは匂いだとかには煩そうだし、何より見舞い品の話については俺らよりきっとベテランだ。ユリが駄目、なんて知らない奴はいないに違いない。やっぱり、このユリは持って帰るべきなんだろう。ただ馬鹿正直に持って帰れば母親が怒るだけだろうし、そうだ、近所の畑耕してるおばさんでも捕まえてあげれば喜ばれるかもしれない。よしそれでいこうか、なんて考えてユリだけを引き抜こうと手を伸ばすと、ぐいっ、とワイシャツの裾が引っ張られる。はっとそこを見れば、テッポウユリと同じく顔を夕日に染めたそいつが、やりにくそうに左手で俺のワイシャツを引っ張っている。
「そのままで、いい」
何を言うんだ、こいつは。咄嗟にそう言おうとして、でも言えなくなったのは、ふっとその瞬間、切り取られたようにそいつの表情が網膜に浮かび上がったから。なんというか、ひたすらに甘い表情だった。今にもとろっと崩れていきそうなほどの、あまいあまい。あぁ、そっか。こいつ、俺のことが好きなんだ。何も言えなくなったのは、別にその時に気付いた事実に驚いたからじゃなくて、ただ単純にその俺に向けられた表情にびっくりしたから。こいつ、こんな顔したんだ。やさしくて、あまくて、せつなそうなそんな顔。いつもは割と賢く見えるはずなのに、今この瞬間だけとんでもない馬鹿に見える。なんてことだ。垣間見えた事実にはちっとも高鳴らなかった胸が、ただそのこの世のものとは思えない表情でドキッとした。あぁとんでもないものを見てしまった、とそんな気分だった。背徳感と罪悪感は確かにある、けれどもそれから次いだのは、よくわからない高揚感。出所の一切が不明の。もやもやとする内に、背徳感と罪悪感は全て訳の分からない高揚感に押し流されてしまって、ひたすらに俺は妙にテンションが高くなる。そして何かの長にでもなったが如く、何かを掌握した気になっている。さっぱりわからない、何でこんな気分になるんだ!それでも、焦りや疑問を通り越してどんどんと熱が上がっていくのがおかしくておかしくて、平静を装ったはずの「いいのか?」という言葉までなんだか上擦っている。なんだ、これ。本当によくわからないがが、ひたすらに気分がいい。笑い出しそうになりながら、そいつの何かおちゃらけたような返事が耳を通り抜けてゆくのを必死で拾おうとして、でも駄目だった。聞き返す気にはなれず、とりあえずもうこの熱さに身を任せるように「バイバイ」とこの黄色いカーテンを捲ろうとした瞬間、やはり先ほどと同じであまくて壊れそうな表情をしているそいつが、赤く滲んで染まっていた。嗚呼、やっぱりこいつは俺が好きらしい。でも垣間見えた事実は同じように俺にとって大したことがないらしく勝手に押し流され、結局はまた俺の熱があがるだけ。これが何を意味しているかなんて、馬鹿な俺にわかるわけないさ。
080727
自分のSっ気に気がつかなかった一日