床に放置されたデジタル時計は、3月31日、11:58を示している。ふと、助詞の足りていない馬鹿っぽい台詞が、合わさっている背中越しに聞こえてきた。
「なぁ、俺、二分後は誕生日」
「じゃあ俺は四日後が誕生日」
そう返事をすれば、あぁーどうせすぐ追い抜かされるんだよなぁなんて至極残念そうにそいつは言った。爪の甘皮ほども残念だなんて思っちゃいないくせしていけしゃあしゃあと、なんて思いながらもそいつのその言葉をどこかしらで丸呑みしたがっている自分がいるのも本当だ。同学年、だというのに本当に同い年である期間はたったの三日。別に、珍しいことじゃないことぐらいわかっている。ただ俺達が、じゃなくて俺が、背中合わせになりながら呑気にゲームなんぞしているそいつとの年齢差を意識しつづけている限り、その三日とは酷く苦難なものに違いはない。そしてその三日が、2分後にはスタートを切るのだ。想像しただけで気分が淀み、不景気にも俺は溜息を吐く。ハァ、と存外に深く響いたそれを後ろの馬鹿は「お疲れなんですかー?」なんてふざけた声を上げて揶揄した。誰のせいだと思っているんだよお前、とは言えず(知ってる。言えないことをわかってて、こいつがこうして俺を傷つけていることは)「馬鹿は悩みがなくていいなぁ」とだけ吐き出す。まったくもって、馬鹿は俺のほうだ。立ち回り方で言うなら、後ろの馬鹿の方がよっぽど賢い。ほら、今だって、俺が傷ついたということをわかって、こうして背中越しに振り向いて、いかにもまだ年下ですという風に装って。
「なぁー誕生日プレゼントが欲しい」
背でいうなら、高いのはこいつのほう。たぶん7センチくらいは違う。ガタイでいうなら、どっちもそれなりに筋肉質でちょっとひょろくて、まぁようは同じくらいだ。つまり、だから総合して言うなら、デカイのは俺じゃなくてこいつのほうだ。昔は俺のほうが大きくて力もあって(小さい頃だから、ほぼ一年に近い生まれの差は体格に如実に現れていたのだろう)ずっとずっと年上に見えた。別に、今になって俺のほうが年下に見られるとかそういうわけではない。体格もあまり変わらないし、差が出ているのは身長だけ。だけれど、中学の頃、背を追い抜かれた時の俺の絶望感をこいつは知っているのだろうか。俺のほうが声が先に低くなって、けれどこいつもあっという間に低くなって、でもまだ身長があると思っていた矢先にこれまたあっという間に10センチ近く伸びて。俺の方が年上だという要素がまたひとつ、失くなってしまった。お前の少しばかり上に立つことがどんどん苦しくなっていくあの絶望は思い出すだけで身震いするほどだ。けれど当時はまるで気づきもしなかったのだろう、こいつは(今に及んでは想像したくもないところだが)。だって、ほら、「なぁいいじゃん、プレゼントくれよ」とか言って、また年下みたいな表情をつくって、まるでなついてますと表現するかのように。なぁお前、わかっててやってるんだったら、もっと嘘っぽくしてくれればいいのに。思わず騙されそうになるんだよ、馬鹿な俺は。
「なぁ、聞いてんの?」
覗き込むような犬っぽい瞳に、だからやめろ!と心の中で悲痛に叫びながら、俺は逃げるように前を向く。「それよりその馬、売っていいのか?」振り向きざまに微かに見たゲーム画面を頼りに話題を逸らせば「えっやっべ変なボタン押してた!」と慌てたようにそいつは向き直った。とりあえずあの犬っぽい瞳が自身に向けられなくなったことにほっとしながら、あぁでも俺はあの犬っぽい、少しばかりキラキラとした視線が好きなのだということを思い出して些かへこむ。やっぱり馬鹿だ、俺は。例えば、たった一年近く開いているだけの生まれの差に頼ってお兄さんぶろうとしているところとか、もうそれも瓦解し始めるどころじゃなく瓦解しているところとか、たった今途切れた会話が少しばかり切ないところとか。なんだか例を挙げれば挙げるほど情けなくなって、だというのに背中越しに聞こえた「なぁー俺、あのソフトが欲しいんだけど」という声にまた胸を躍らせてしまう。それを覆い隠そうとして隠し切れずに逆に低すぎる声になったりするところも、俺の馬鹿なところだ。
「自分で買ったら?」
「人に買ってもらうことに意味があるんじゃん」
「ふーん、なぁ、じゃあ俺にも誕生日プレゼント買えよ。それなら買ってやるから」
「えーでもお前、俺に買ってもらっても嬉しくないんだろ?」
そこで、思うのはもちろんお前にプレゼントを買ってもらって、嬉しくないわけがないのだということ。毎年、中身がどうだとかじゃなくて、こいつに物をもらうというそのこと自体に馬鹿みたく(馬鹿なんだけど)舞い上がっている自分がいること。そして、こいつはそれを知っているということ。あぁ空しくてしょうがない。わかってるんだ。たった今思ったことをこいつに有りの侭言えば(例え本人は既に知っていることでも)、それでこんな風に自分ばかりが辛い思いをすることもなくなるだろう。たぶんきっと、いつかもしかするなら修復出来るかもしれない気まずさだけを残して、俺達はもう会わなくなる。自分は泣くかもしれない、でも、たぶんいつかは切り替える。ふられたのだからしょうがないと。訪れるのは確かに悲しみだし、後悔も間違いなくあるだろうが、状況の変化はあるのだ。今のまま、空しく兄貴分を演じながらただなぁなぁにこいつに傷つけられるだけじゃなくて。なぁでも、そんな風に解放されるくらいなら、自分は今のままでいいと思ってしまうんだから、どうしようもない。今のまま、たまに一人暮らしのこいつの部屋を掃除してみたりとか、夕飯を作ってやったりとか。こういう時間を無くしたくない。だから、言えない。何度も言う。こいつは俺がこういう風に考えることをわかっていて、こういうことを平気で言ってくる。俺が「お前に買ってもらっても嬉しくない」という嘘をついて傷つくことも、冗談ではぐらかしたとしても傷つくことを知っていて、こういうことを言う。あぁ、もう俺はこいつの上に立ててなんかいないのだ。俺がこいつの兄貴でいられた頃はとっくの昔に終わって、今じゃ俺が掌握される側だ。嫌な奴で、最低な奴だ。なんていうかもう、人間的に。そして、こんな女みたいなことばかり考えている俺は、やはり大概馬鹿としか言いようがないんだろう。
「あぁ嬉しくないけど、でもフェアじゃないじゃん」
なんとか搾り出した言葉は、おかしくなかったか。声は上ずっていなかったか。そんなことを考えながら、そっと後ろを向けば「じゃあなんか買ってやるよ」と言いながら犬みたいな瞳がまたこちらを向いた。それで癒されてしまうのだから、俺ってもしかしたらマゾなのかもしれないとなんとなく思った。たぶん、どうでもいいことだが。
「あーあ、でも後三日しかないんだなぁ。買いに行く暇あるかな」
「それを言うなら俺なんてあと15秒しかない」
「はは、確かに」
「どうせなら明日、一緒に行って選ぶ?俺、ゲームとかわかんないし」
正直、すごくドキドキしていた。本当に、俺、女みたいだ。柔らかい腕も、白い肌も、ほっそりとした足首も、長い睫も、何もかも持ち合わせていないというのに、思考だけが、なんて。どれだけ気持ち悪いんだよ、と思いながらもそれでもドキドキするもんはするのだからしょうがないさ。ふと横のデジタル時計を見れば、あと7秒だった。そう、残された俺の兄貴分としての要素は、実質的な年齢のみとなっている。そして、あと7秒でそいつは消える。あぁ、本当に、どうしたらいいんだろうな、俺。ただの友人になれないことなんかわかりきっているのに、最悪の三日間の間に一緒に出掛けようなんて。逆を言えば、本当に薄っぺらい皮一枚だから、大して変わりもしないのかもしれないな。なんて考えていると、あと3秒だった。あぁもう少しだ、もう少しで。
「あー明日は無理だ。彼女と出掛けるから」
とそいつが言ったところで、デジタル時計は4月1日、00:00を示した。こいつの誕生日で、そしてそれは俺の最悪の三日間の始まりで。どっちしても俺の中では特別な日であることに変わりはない。四日後の自分の誕生日なんかよりはよっぽど、この日が大事だと俺は思う。でも、だというのに、なんでもない風にゲーム画面にそいつは向かうのだ。いっそのこと女みたいにここで泣いたり怒ったり出来ればいいんだ。気が付いているなら、せめて何か言ってくれと(身勝手な話ではあるのだが)。でも、俺にはそんなことは出来なかった。いつかは出来るのかもしれない、でも今は、そんな風にこの空間を壊す気はさらさら起きない。俺はこいつの兄貴分で、たまにこうしてやって来ては、それなりに楽しく過ごして帰る。心から友人になることは出来ないけれど、それでも仲は良い。なぁそうだろ、と少し首を捻ってゲームをしているその馬鹿に顔を向けつつ背中越しに「誕生日オメデトウ」と素っ気無く言ってやると、何故かこういう時だけ邪気のない笑顔で素直に年下っぽく弟分らしく「ありがとう」なんて。ふと、簡素な着信音が鳴って(たぶん彼女からのお誕生日おめでとうメールなんだろう)、そいつはゲームコントローラをほっぽって、言うなれば俺の背中もほっぽって、携帯電話を手にした。咄嗟に、何故か見えない彼女ではなく、その携帯電話を手にとっている目の前の男の方が憎くなった。けれど、思えばこの馬鹿をこうして憎むのは別段初めてというわけでもなく、むしろよくあることだ。
(あぁ俺ってやっぱり馬鹿なんだ、)
少しだけ目尻に涙が溜まるくらいは、仕方がないと思いたい。
080602
いつぞやに言っていた4月1日生まれ×4月4日生まれ
やってるゲームはたぶんウ/イ/ニ/ン/グ/ポ/ス/ト(プレイ経験は皆無)