とても、言葉では言い表せないような場所だ。ふと記憶を手繰り寄せて、あの頃いた無機質なあの場所を思い出そうとする。しかし、感じるのはあの時のような寂しさではない。此処はあたたかい、あたたかい人の言葉や仕草が溢れている。とても、誰かを殺してきたような人々には見えなかった。けれどどうしてか、感じる空気はうすら寒い。彼らが向ける背中は大きく、そして遠い。
「とりあえず、ここで待っててくれ」
からかうような笑みを浮かべた、人の良さそうな男はそう言って足早に駆けていく。その姿も、やはりどこか遠い。翻され向けられたそれに、私は突き放されたような気分になった。ここは、おかしい。私はそれを明確に、感じ取った。此処に居る人々は、誰も優しいけれど、でもおかしい。酷く、冷たいと思う。この場所の存在全てが、私を、あるいは私たちを拒絶している。その全身で、否定している。空恐ろしくなって、私は咄嗟に隣に座る彼の大きな手に、自分の手を絡ませた。
「マリー、どうしたの?恐い?」
優しい声に、そっと息を吐いた。よかった、彼はまだ私に背中を向けてはいない。
「ううん、ちょっと不安になっただけ。でも大丈夫」
わざとしおらしい態度を取った自分が情けなかったので、幾分か気丈な声でそう言えば彼は安心したように笑って、手を握り返してくれた。大きくて、あたたかくて、優しかった。これ以上とないほど、幸福で満たされていく自分は、酷く盲目的で不安だ。でも身を任せて悪くないと思うほど、それは魅力的なのだ。この場所の恐ろしさなどどこかへ忘れ去り、無意識のうちに淡い笑みを彼に向けていた。愛しい、手の温度も、あなたの声も、何もかも。
(此処は、恋人を連れてきていいような場所じゃないのよ)
ふと、聞こえた声の冷たさは、今まで聞いたことがないほどのもの。私は耳を疑う。幻聴だと思う。けれど、それは確かに耳殻に残っている。私たちを、全身で否定する声。ふと、足元に何かが触れて、見れば其処にはヘルメットがあった。恐ろしいことに、胴体部分がないにも関わらずそこからは確かに人の表情が伺える。生首だ。私は、これは幻覚だと冷静に思う。たぶん、隣の彼の存在が酷く心強かったのだ。一度、まばたきをすれば、これらは消えるのだと信じた。疲れているだけ。そして、一度目を閉じた後ふと視線をあげれば、真っ直ぐに続く廊下の奥に、死体が重なっていた。息を呑んだ。先ほどの人のよさそうな男が、その死体の横を通り過ぎてこちらに向かってきた。おかしい、おかしい。
「おーい、アレルヤ!」
明るい声は、私が今見ている幻覚とは不釣り合いが過ぎて、いっそ狂気的に聞こえる。
「あ、イアンさん」
隣の彼の声も、何でもないように酷く軽やかなものだ。けれど、私の目にはまだ死体が映っている。はみ出した機械の身体や、身体に見合わぬ銃器の下敷きになった小さな小さな子ども達。異様な明確さで表されるそれらは、ここにいる誰かの記憶なのだと思った。それらが、私たちを全身で拒絶する。ここは何かを残す場所ではない、だから相応しくないのだと告げる。私は、ふと理解した。ここは、大切な何かを失うため、己の命を散らすための場所であるのだと。きっと、ここでは誰もが等しく戦士だ。大きな痛みに耐え、奮い立たせるようにここに立っている。対等で、優劣のつけようのない、戦いに身を投じる人々。
「マリー、どうしたの?大丈夫?」
彼の優しい声が、胸に染み渡った。ここにおいて、個人の未来に在るのはきっと戦死という、ただそれだけなのだろう。駄目だ、彼もその一部だ。お願いだから、私に背を向けないで。この大きくて優しい手をひいて、此処から逃げ出してしまいたい。あなたを守って、そして守られながらふたりきりでどこか遠くで暮らしたい。そう、死体を前にしながら、誰かの痛みを前にしながらでも、本気で願わずにはいられなかった。