下宿所のベッドシーツはこまめに洗濯に出されているせいか(自分がしているわけではないのだが)いつも清潔で、けれどベッド自体は安いからなのか倒れこんだそこからさわやかさは感じ取れどやわらかさを感じることは一切ない。予想通り、疲れた体は癒されない。溜息を吐いて、そしてむくりと起き上がれば今度は胃の真ん中に穴が空いているようなこの感覚。もはや苦痛に近いそれに、密かに笑いを零した。数日前に入部したばかりの剣道部の先輩にあれだけしごかれたのだから、これくらいは当たり前だろう。時計を見れば、時刻はもう9時に近かった。初日からこれだけ厳しい部活も珍しいのか、それとも他の高校でも当たり前のことなのかはよくわからなかった。とにかく苦痛を訴える胃に順じ、食堂へと降りるとそこにはいかにも体育会系ですと言った風の先輩方が、定時より遅い夕食を取っていた。ある人の姿を思わず探したけれど、当然見付るはずもない。彼はたぶん部活には入らないのだろう、だとすれば几帳面な性格の元、定時に夕食を取るに違いないのだ。カウンターにぽつりと残されていたお盆を手にとり、ほとんどぬくもりの残っていないボリュームだけは嫌になるくらいある食事を胃に掻きこむ。この下宿所は料理があまりおいしくないのだということで有名だそうだが、自分がそれを気にしたことはほとんどない。量さえあればそれでいい。ただ、初日に横で黙々と食べていた幼馴染が怪訝そうに眉を顰めていたことは覚えているから、やはり噂は本当なのだろう。偏食気味な彼がこれ以上少食になることのないようにと密かに願いながら、静かに手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
いただきます、をよく忘れてしまうのは単に忘れるくらいに胃が苦痛に捩れているからというだけだ。仕方ない。呟きながら、他は違う高校の年上のしかも屈強そうな奴らばかりという居心地の悪い食堂を、食器を返してさっさと抜ける。奥から料理長のおばさんが鼻歌を歌っているのがざわついている中で妙に耳についた。決して嫌なわけではないのだが、とか考えながら軋む階段を上がる。真っ直ぐに廊下を進み、その突き当たりの部屋。たまたま運良く角部屋が当たったことを、不幸だと思うわけではないが特にいいと思ったこともない。ただ、
「おかえり」
「ただいま」
「部活初日からこの時間じゃ、成績あがったりだな」
それがどういうつもりの嫌味だったのかはよくわからないが、彼がいきなり不機嫌になったりするのはいつものことなので放って置く。幼馴染は、優雅に人のベットに腰掛けて本を読んでいる。角部屋の利点、窓がふたつあること。彼にとっては非常に重要なことらしい。僕にとっては確かにどうでもいいのだけれど、彼が喜んでいるならばここが当たって良かったと思う。直接喜びや感謝の呟きを聞いたわけではないが、下宿所生活を開始して以来かなりの頻度で入り浸っていることからもたぶん気に入っているに違いない。当然、彼自身が意外にも寂しがりやであるせいでもあるのだろうが。けれど寂しい時に僕といることが気を紛らわす材料になるのなら、これほど嬉しいことはないというもの。
「何、ぼうっとしてる。お前の部屋だぞ」
そこまで優雅に座っている人が言う台詞ではないと思ったが、どうやら未だ不機嫌のようである彼を刺激する気にはならず黙って隣に腰掛ける。彼は相変わらず優雅な手つきでページを捲る、その指が白くて長くて、好きだなぁと思った。指がとんでもなく綺麗な人だ。指だけじゃなく、顔も体つきも足も全てにおいて造形的な美しさを誇っている彼だけれども、特に指の綺麗さは特出している(他も特出しているけれど、あくまで僕の中で)。
「おい、」
「え、何」
「いや・・・何か顔についてるのか?」
不思議そうに発せられたその声に、何故かもう怒気は含まれておらずひっそりと息を吐いた。本当に、猫みたいに機嫌の上下が激しい人だ。猫が激しいかどうかなんて知らないけれど、例えとして。すっと小首を傾げられて、あぁ今のちょっと小動物っぽかったなと頭の片隅で考える。そのままぼんやりとした表情を見つめていると、長い指がつんと僕の頭を弾いた。
「いたた・・・」
「質問に答えろよ、まったく。疲れてるんじゃないのか?」
妙にやさしい声音だったので、本当にもう不機嫌でなくなったことを悟ると同時にそれまでの会話の一体どこに解消させる要因があったのかわからず首を捻る。しかしわからない。もう一度、彼を見れば少し心配そうに眉を潜めているから妙な気恥ずかしさが込み上げてきて、少しだけ目線を逸らした。「確かに疲れたけど」、とどうにも決まらない風に呟いたせいか、まるで彼を突き放しているかのような響きがあった。それに言い訳をするように、初日からあれだけハードな練習をさせられればしょうがないと付け加える。それは確かな事実でもあるのだし。しかし、ルルーシュはますます眉を潜めてしまった後には軽薄な発言を後悔するしかなかった。まったく心配性だ、これじゃあナナリーも大変だろう。
「さっさと風呂に入って来い」
いつか部活をやめろ、なんて言われるんじゃないだろうかと危惧しながら、その言葉に従った。大股2歩で渡り歩けてしまえるような狭い部屋の隅にある備え付けのタンスを開き、必要なものを揃える。このタンスの中身がこの生活を始めて以来ずっと綺麗なのも、シーツがこまめに洗濯に出されるのも、全ては彼のおかげであることはよく理解している。ありがたいかと聞かれれば、もちろんだと答えるけれど。何だかこの共同生活の行方にやはり妙な照れくささを感じて、慌ててタンスの引出しを閉めた。しかしその間、ルルーシュは本に夢中だったわけだが。当たり前と言えば当たり前だ。なのにそのことに気が付いた瞬間に気恥ずかしさが一気に下降して、思わず溜息を吐いてしまう。本当に、猫のような人だと思う。
「そうだ、明日は朝から雨らしいぞ」
部屋を出る寸前、そう言って本から視線を上げて微かに笑うルルーシュの顔が見えた。いかにも上機嫌なその表情に、やはりその上下に起因する何かについては考えないほうがいいのだと心に誓った。それは幼い頃から数えると、既に5、6回は繰り返された決意だったけれど。