このベットが軋むスプリングの音を、聞くのはたぶん今日で最後だ。ぎしり、という音を聞きながら、横たわったそこで、後悔はあるだろうか、とよく考えている。数日前に、自分以外は誰一人として近づくことの無くなったこの部屋は、その簡素さに相俟ってとても静かで、だから、執務以外にすることと言えば考えるというただそれだけだった。そしてシャワーを浴びる、食事をする、それの後片付け、あとは掃除に洗濯、そして眠ること。思えば学業をこなしながら送っていた生活と大差がないことに、笑いが漏れるのはしょうがないことだろう。最後の最後になって、自分は酷く穏やかな心地でここにいる。あの頃との違いは、心の奥に掬う焦燥や苛立ちが単なる満足感に摩り替わったことだろうか。そして、もうひとつはものや時間の感じ方だ。あの頃は、もっとそこにあるものの内なる意味を汲み出すかのように、時を過ごしていたように思う。全てに理由を付けるように行動して、そして理由の無い行動をする度(ほとんどがそれだったのだけれど)にまた酷く焦っていた。今、違うのは、自分は流れるままに訪れるものや時間と接していることだ。意味など無い、でもそれでもそれそのものを楽しむようなつもりで、こうして時を過ごしている。それそのものを楽しむ、ということ。身体を起こし、サイドボードに置かれたマグカップを手にする。そこには、暖かなコーヒーが並々と注がれている。それを口にして、おいしいと思う。ただこれだけで幸せだと、そう思える瞬間を得られたことに自分は感謝している。こんな穏やかさを、手に入れることができたということ。満足感を得ながら、また舌の上に香ばしいそれを広げる。たぶん、こうしてコーヒーを味わうこともきっと最後だ。笑みを浮かべながら、目を閉じて、香りを味わう。サイドボードに置かれている、携帯電話を眺めながらまた笑う。これで最後だと思うと、全てはこんなにも新鮮味を持って自身に訪れる。やはり、後悔など無い、と思う。こんなにも穏やかで、満ち足りている。
(幸せ、だ)
もう一度、半分ほどマグカップに暖かなコーヒーを残したまま、白く染まったシーツに身体を預ける。ゆるやかな反発が心地よく、スプリングの軋む音がどこかなつかしかった。目を閉じる。これまでのことを、思い返す。後悔はあるだろうか、とあの頃のことを思い返す。最後に別れたC.C.が抱きしめていた間抜けな人形、あれが手に入った日、自分は酷く打ちのめされていてその事実に気付くのに随分と時間がかかったこと。仮初の弟が、自分に見た目の悪いお菓子を焼いてくれたこと。学園に入学した当初、捲くし立てるように話し掛けてくるミレイに、鬱陶しいと思いながらも感謝していたこと。ミレイに押し出されるようにして出てきたニーナが小さな声で自己紹介をしてくれたこと。ハエを見事に叩き落したカレンに思わず賞賛の拍手を送ると、物凄い顔で睨み返されたこと。クラスの誰かが、ナナリーをかわいいと言ってくれて、振り返ればそれがシャーリーであったこと。リヴァルが自慢気にサイドカーを俺に見せて、そして乗れと言ってきたこと。スザクに、出会った時のこと。そして何より大事だった、優しく触れねばならない、愛しい妹。今は全てを、ただ純粋に愛しいとだけ言うことが出来る。思いのままにだ。これはこれ以上とないほどの幸福だ。きっと今なら、ただ単純に指先一つの動きですら含む全てで愛情を注ぐことができるのだ。苦笑が漏れた。残念ながら、その指先が触れたいと思うものが、傍にあることはもう二度とないだろう。あぁ、見つけた、と思った。後悔があった。ナナリーに、スザクに、C.C.に、この世に生きる全ての人へ、もう愛情を持って直接触れることは無いのだということ。愛しい人たちの、行き着く果てを見られないこと。せめて、あの子の幸せになる姿を見たかったように思う。あの子が、優しい人たちに囲まれて、誰かも愛されて、そして愛して、笑っているところを。
(今更か)
また、苦笑を浮かべて、身体を起こす。これが罰だというのだろうか、触れられないというこの時が。携帯電話に映る時刻は、随分と夜も更けたことを示している。そろそろか、と思いながら、半分だけマグカップに残ったあたたかなコーヒーをゆっくりと飲み干す。これが、最後だ。飲み干して、そして携帯電話をを握る。ふと、まともに人と話すことはこれで最後になるかもしれないということに、気がつく。にやり、といたずら心をくすぐられたように笑みを浮かべた。特別、優しい声で出てやろうと考える。そうだ、触れることは出来なくとも、愛することはできる。それは愛情を注ぐというただそれだけのことなのだから。笑みを浮かべたまま、ボタンを押す。めいいっぱい愛してみせると、そう思う。触れなくても、会えなくても、愛することはできるのだ。ならば、身体が滅びたところで、そんなことは容易いに違いないのかもしれない。おかしくてしょうがないと思う。身体が滅びるなんてこと、そんなのは些細なことでしかないように思えてくる。やはり、後悔はないのかもしれない。だって、自分は今こんなにも幸せで、きっと最後まで幸せで、身体が滅びても残るものがあるような気すらしてしまうのだ。それはとてつもない甘美な響きで身体に染み渡ってゆく。十数時間後に消え去るであろう自身の身体を、一度だけ腕で抱いて、受話器を耳に押し当てた。聞きなれた電子音が、耳介を通り体中に広がってゆくのを感じる。最後の電話だ。俺は、明日にはもうどこにもいない存在になるのだから。響き渡る電子音が途切れ、受話器の向こうに空気が流れているのを感じ取る。

「もしもし、スザク」

さよなら、でもたぶん、別れはもっと先のことだよ。







hazy

081015
最終回派生「残暑」より残留