この部屋は、まるで殺風景だ。
元新宿ゲットーの外れ、目の悪い老人が管理する古く汚れたマンションの5階。窓からは、微かだか租界を臨むことができる。念には念を重ねた密入国の末、顔を知られている自分は幾度も人気のない山を越えて今此処にいる。彼が手配していたこの場所は、目の悪い老人以外、誰もいない。夜も更けた、外の空気は冷え込んでいる、遠くの方で、誰かが何かを叫ぶ声が聞こえた。悲痛な声色が響いている。空が見える廃ビル、血に濡れた壁、行方不明者の人々の顔が貼り付けられたフェンス。この荒れた土地でしか、人々が捨て行き、身動きの取れない弱った老人達ばかりが残ったこの場所でしか、叫べないこと。今この状況からすれば、それはわかりきっている。それを日の下で声に出せば抹殺される、例えようのない重圧がこの世界に今のしかかって、人々はその下で喘ぎ苦しんでいる。僕は、乗り出すように窓から荒れた土地を見る。騒いでいる若者の中には、日本人もブリタニア人もいた。いつのまに仲良くなったんだか、と少しばかり息を吐いた。大きな敵を目の前にして、誰もがその恐怖ばかりに心を通わせている。いや、そんな気になっているのだけなのだ。過去は過ぎ去ったもの、今の敵はきっとただひとりの皇帝。いっそ清清しいほどに、大衆の反応は顕著なものだ。それらが向けられる先である、彼はきっと穏やかな顔をしているのだろう。ただひたすら死を待つ主、そして死んでいった騎士である自分。僕という個人は、既に社会的にこの世から抹殺されている。そして明日、人々の希望を具現化する電池となるのだ。こうして、微かに見える租界を眺めていると、酷く不思議な心地になる。この世から、もう自分は消えているのだと考えると、実感が湧かない中ただ何かが空いたような、そんな気分になる。これは解放されたというのだろうか、よくわからない。窓枠に掛けた手を下ろし、しっかりと閉じる。その手は真っ黒の手袋に包まれている。指紋を、残さないためだ。物がないに等しいこの部屋で唯一の家具である、ベットに倒れこむ。どくどくと心臓が波打つ音が、血の巡る音が、手に取るように感じられた。僕は、息を吐きながら、目を閉じる。頭の中は過ぎるというほどに真っ白で透明、だけれど体の奥から何かが沸き立つようなそんな穏やかなのか、荒々しいのか、判断のつかない感覚が僕を襲っている。でも思考は、落ち着いている。ふと、床に投げ出された携帯電話が静かな音を鳴らす。僕は慌てて、だけれどゆっくりと、ベットから降りて、手袋に包まれた手でそれを拾った。
「もしもし、スザク」
今、この世の全てから恨まれている少年の、声が聞こえた。そうとは思えないほど、穏やかで静かな声。
「あぁ、作戦の変更は?」
「ない。全て予定通りだから、お前は確実に遅れないように其処から出てくれ。場所は・・・」
「ちゃんとわかってるよ。変更がないなら問題ない」
「それもそうだな、あれだけ口うるさく言ったんだ」
くすくすと漏れる笑いはあまりにも優しげだった。僕は、波打っていた鼓動が徐々に落ち着いていくのを感じる。静かだったはずの思考が乱れるように、何かがじわりじわりと胸のうちに広がっていくのを感じる。血の巡りが減速し、腰を抜かすようにその場に座り込む。ずるり、と剥き出しのコンクリートの堅く冷たい感触が、背中を伝っていく。
「部屋の掃除は?」
「もう済んでいるよ。髪の毛一本残さないように、だろ」
「心配だな、お前はあまり器用そうじゃないし」
「これでも家事は一通りこなしてたんだ。君には叶わないけど」
「でもそれ、一年前の話だろう?」
彼はまたくすくすと笑う。耳の奥が、少しだけくすぐって、泣きたくなった。「馬鹿にしないでよ」搾り出した声は、それでも酷く落ち着いているように自分には聞こえるのだが。彼はまた、息を吐くように笑う。また耳がくすぐったくて、あたたかい。不安になって、思わず目を閉じた。優しい感触が焼き付けられていくのがわかって、心臓を握られたような心地になる。息が、詰まる。夜は変わらずに冷たい。電話の向こうで、重たい音がした。時計が、何かを打つ音だ。
「あぁ、時間か」
彼の声は、酷く穏やかで優しげだ。
「全ては予定通りに。頼んだぞ、スザク」
何かが、再び波打っていくのを感じる。広がるのは不安と心細さ、五月蝿く高鳴るのは僕の血と鼓動、生きているという証であるそれだ。なんて皮肉なのだろうか、と思う。僕はこれから、
「あぁ、了解したよ。ルルーシュ」
低い声で、頷く。「頼んだ」と、もう一度だけ、穏やかな声が落ちるのを感じた。ぷつりと途切れる音がして、奥の方でノイズだけが響く。あたたかさのない音が耳に触れている。僕は、携帯電話を引き離し、ふたつに折る。先ほどまで寝転がっていたベットの薄いシーツを整え、髪が落ちていないか確認する。窓際と、先ほど項垂れて座り込んだ場所も。確認を済ませると、ドア付近に置いてある数日分の食料から出たゴミが詰まったポリ袋を拾う。それを開けて、中に真っ二つに折れた携帯をいれる。立て掛けているブルーシートに包まれたものを背負う。黒装束と仮面を入れたディパックを手にする。耳の奥で、何かが波打つ。頭の中が、真っ白になってゆく。そう、決意でただひたすら心を満たすだけ。僕は解放されてなどいないのだ。社会から抹殺されても、僕は今こうして息をして、心臓を鳴らしている。それは変えられない事実で、けれど、これから僕はそれを押し潰しにいく。蹲って弱々しく泣きたい思いも、彼や誰かを思う心も、縋りたい気持ちも全て欺く。この背負った刃で世界の悪を突き刺し、この手にした黒装束と仮面で大衆の希望を具現化する。親友を刺して(最愛の人の仇を取って)、その事実に囚われにいくのではない。それらは全て欺き隠し通さなくてはならないものだ、僕にとっての最愛の彼女を殺した彼のように。
「僕は、ゼロだ」
一年前、憎くて憎くて殺したくてたまらなかったものに僕はなるのだ。無機質な扉を開けて、ゆっくりと閉める。これから十数時間後、この世界は圧制から解放され、民衆の望む方へと道を進めていく(真実望んだのは、彼だけれど)。僕が、その象徴となる。耳の奥で、血を流す音を鳴らしているこの僕がなる。ゴミと携帯電話の入ったポリ袋を落として踏みつけて、そしてそれに、ライターで火をつける。頭の中を真っ白く染めたまま、僕は感じる全てを認識することを拒否したまま、その炎を眺めるのだ。僕はゼロであって、改革の時を待ち焦がれる救世主であって、決して立っていることすら苦しいと思う弱い個人ではない。あってはないらないのだ。小さな炎が、爛々と輝いている。幾度となく僕を襲う心細さも、息苦しさも、手の震えも、今にも流れ落ちそうな涙も、耳に残るあたたかさを愛しく思う気持ちも、全て全て燃やし尽くしてくれとそれに願う。僕を、強かな決意だけで満たして欲しいとそう願う。なんて、他人任せで自分勝手な願いだろうか。しかし願いとは、本来ですらそうでしかないものだ。どうあっても叶わない、我侭にすら成り下がれない真摯な思いと、だからこそ口に出すことでしか真摯さを保てない、途方もなく厳しい現実とのそりはいつだって合わないのだ。そしてだからこそ、僕はこれから嘘を吐く。誰かを思う心、自己を守ろうとする本能、変わらずに身に起こるであろう生理現象、世界の敵に、彼に生きて欲しいという願い。それら全てを覆い隠して、綺麗なままの願いは叶ったと、大衆へと嘘を吐く。そのためになら、耳の奥で鳴る、血を流す音すら感じてはいけない。手袋の下の温度すら、無としなけらばならない。
(呼吸だって、止めてみせるよ)
燃え盛っていた小さな炎が、次第に萎んでゆく。バラバラに焦げた残骸が姿を現す。涙を呑む、嗚咽を押し殺す、前を見る。残骸は全て踏みつけられる。暗く冷たい、夜を歩き出す。