白くて細くて、けれどしなやかな指が淡いブロンドの髪を撫でていく。実は、その美しい手も、裏返せばそこらじゅうにたこがあることを僕は知っている。それはナイトメア乗りである証、そしてこの少女を此処まで来たらせたもの。鏡を見れば、酷く優しそうな顔をした彼女が無邪気に笑っていて、やはりそんな風には見えなかった。簡素なラバトリーを、華やかにさせる少女。擦りガラスの向こうには、この方があなたには似合うと言って置かれた猫足のバスタブがある。彼女は、楽しそうにハチミツ色のトリートメントを長い髪に馴染ませている。僕がそれを必要だと思ったことは今までで一度もないが、けれど彼女がわざわざこんな地下深くまでやって来て、とても楽しそうにそれをするからこの行為を拒否したことは一度もなかった。彼女が満足するなら、それでいいと思っている。鼻歌交じりの、彼女の機嫌のよい声が聞けるのならそれで。
「あなたの髪って本当に綺麗ね」
「そう?僕はマリアンヌみたいな真っ黒い方に憧れるけど」
そう言うと、彼女はもちろん私の髪だって綺麗よ、と笑った。随分と自信に満ち溢れた発言だが、実際に彼女はいつでも自信に満ち溢れている。それは容姿、実力、全てにおいて彼女は自信を持っている。しかし、賢いので見誤ることはないのだ。自惚れているのではない、ただ把握できる全てのことに自信を持ち合わせているというそれだけなのだろう。鏡に映った彼女の不敵な笑みが、僕はとても好きだ。その白い肌とのコントラストが美しい黒髪も、輝きに甘さのある目も、控えめな口元も。本当に、綺麗だ。
「・・・でもね、私の髪はしっかりとしていて太いの」
「そうなの?」
「そうよ。あなたの髪は細くて柔らかくて、羨ましいわ。なんだか赤ちゃんみたいだもの」
そう言って、さらさらとした自分の髪をまた楽しそうに撫ぜる。鼻歌交じりの軽やかな声が、次第に何かの歌に変わってゆく。僕はこの歌を聞いたことが何度かある。たぶん、彼女が生まれ故郷で母に教わったと言っていた歌。僕はこの歌が好きだ。彼女のどこか甘さを含んだ軽やかな声で、謡われるこの歌が好きだ。けれど僕はほとんど聴いたことはなかった。彼女がこの歌を誰かの前で歌うのは、とても珍しいことだ。上機嫌の証拠だろう。僕は鏡に映る、無邪気に笑う彼女を見つめながら自然と頬を緩ませる。整えられた黒髪が揺れている。控えめな口元が、微かに何かを呟いている。グリップだこのたくさん出来たその手が、僕の長い髪を撫ぜている。立ち込めるのはトリートメントの香り。それは見た目の通り、咲き誇る花の蜜の香りとよく似ている。まだ女の子であるこの人が、いかにも好みそうな香りだった。思えば、この行為だってそうだ。自分にはない、やわらかくて優しい感触の髪に触れたい。そんな思いでいる彼女が満足するなら、それでいいと思っているのは本当だ。この無邪気な笑顔と、声と、表情が、全てが愛しい。だから、自分もたぶんこの時間が楽しみなのだ、きっと。鏡の中、彼女の前に立ちはだかるのは自分の身体。衣服に包まれていてもそれは、立派に成人した男子とは言い難かった。ただの幼児にしか見えない。たぶん、自分の髪が特別やわらかいのも、これのせいなのだろう(赤ちゃんのようだ、とは言い得て妙な話しなのだ)。手首は酷く細く、首はいかにも幼児のそれらしく肉つきがない。幼さばかりのこの顔は、ただ愛らしく強靭さなどどこにもない。反して、その後ろに映る彼女は、とても女性らしい体つきをしている。彼女だって、まだ成人にも満たない女の子だというのに、その違いは明らかなものだ。そして、自分の弟は、自分よりも何倍も成長した体で、声は細くなどなく深みがあって、手の平は大きい。きっと彼女を包めるくらいに。

「あのね、V.V.」
鏡に映る彼女の、その白い頬が少しだけ、上気する。
「子どもができたの。だからあなたみたいな、やわらかい髪の子が生まれてくれると嬉しいんだけど」
僕は、そっと目を伏せて、それから「赤ちゃんは、髪は皆やわらかいよ」とそう言ってあげた。彼女が、とても嬉しそうに、無邪気に、また笑っている。「でも成長した後がね。シャルルも私も、髪が硬いからちょっと不安だわ」朗らかなその声は、小鳥の囀りみたいだ。僕は、耳を塞ぎたい衝動を抑えて必死でその声を聞く。その話を、聞いてあげる。大丈夫だ、聞いてあげられるはずだ。だって僕は、ふたりが本当に大好きなのだ。だから、聞いてあげられないなんて、耳を塞いでしまいたいなんて、そんなことは気のせいでしかない。彼女は、軽やかな声で話し続ける。その甘い輝きを持つ眸は、どこか遠くを見つめている。その先を僕は知っている。たぶん、彼女が本当の意味で僕を目に入れたことなど、ないのかもしれないと思う。けれどそれは仕方の無いことだ。彼女は無邪気だ、いつだって。悪気など無い。「僕が思ったより早かったな。おめでとう」鏡の中の、少女が笑う。いつもはただ無邪気なだけのそれが、ほんの少しの喜色に染まり、とんでもないほど可愛らしくなっている。
「ありがとう、」
こういう普段は見ない笑顔を見る度、不安に掻き立てられる。このふたりは、いつか自分のことなど忘れてどこかで勝手に幸せになってしまうのではないだろうかとか。そんなことはあり得ないと、僕は自分に言い聞かせる。涙が滲みそうになり、それを必死で堪える。鏡の中の彼女は、やさしい手つきで変わらずに僕の髪を撫ぜている。赤ちゃんのようにやさしくて、やわらかいそれを。そして、またその朗らかな声で、控えめな口元で、歌を歌い始めた。さっきと同じ歌だ。甘さのある声が、花の蜜の香りで充満したこの場所で、やさしく溶け出していく。きっと、彼女はこの歌を、子どもに謡ってあげるに違いない。信じられないほどのやさしさが溶け出した声で。
(僕には、頼んでも謡ってくれなかったのに)
シャルルには、よく謡っていたけれど。

「どうしたの、V.V.」
彼女が、また笑顔で問うてくる。いつだって無邪気で、その手も声も表情も、やさしくて甘い。まだ女の子だけれど、間違いなく彼女は女性だ。叫びだしたくなるくらいに。
「僕、髪を切りたいな」
「あら、どうして?失恋でもしちゃった?」
「まさか違うよ、邪魔なだけだ。それに、君、子どもができるんだろう?なかなか此処へは来られなくなるよ」
「別に此処へ来るくらいのこと、何てことないけど」
「でも回数は減るでしょう。僕、自分で手入れをする気にはとてもなれないからね」
彼女が、少しだけ眉を潜めた。そうしてほんの少しの間考え込んでいる。
「でも駄目よ。私がお手入れするんだから」
そう言って、笑って、また甘い声であの歌を口ずさみ始めた。考えられないくらいに上機嫌で、楽しそうだ。だが、僕にはわかっていた。きっと、彼女が此処へ来る回数は減るのだろうと。シャルルと、結ばれたあの時と同じことが起こるのだと、それくらいは容易に想像がつく。ふと、彼女の腹を突き刺してやりたくなる。僕が心の底から大好きだといえる、あのふたりを繋いでしまう決定的なそれが憎くなる。殺してやりたい。きっとお腹の中の赤ん坊は、僕が欲しくて欲しくてたまらないそれを、無条件に食い尽くすのだ。なんて、不公平な。殺してやりたい、殺して、その位置を変わってしまいたい。僕だってふたりに、僕だけを見て欲しい。そいつを殺したい、殺してやりたい。そう、これは、少女のお腹の子に対する殺意だ。大事な弟を奪っていった彼女が憎くなっても、大好きな彼女を奪った弟が憎くなっても、それは気の迷いでしかない。降ってくる、少女好みの艶やかな香りと、甘く軽やかな声と、溢れ返る途方も無い殺意で全てを覆い隠す。僕が、無邪気なふたりを憎いと思うことなどあり得ない。絶対にあり得ない。押さえ込んだ中から、溢れ出してくるそれらなどは捨ててしまえばいい。
「ねぇ、切っちゃ駄目よ」
ほら、こんなに甘い声を、憎いだなんて思えるわけが無い。けれど僕が、思い描くのは、この瞬間にはさみを持ち出して彼女の腹を刺して、赤ん坊のようにやわらかな髪をぐちゃぐちゃに切り落とす光景。艶やかな蜜の香りの中で、真っ赤な血で彼女の衣服が染まり、中の胎児は痛みに裂かれて耳障りな声で泣き喚き、死ぬ。苦しみに喘ぎながら、何も判らずに。そして真っ赤に染まった彼女の子宮に、僕が今よりもっと小さくなって収まる。その10ヵ月後には、僕は無条件で、やさしくふたりに撫でられる。一緒に寝てもらって、寝る前にはキスをしてもらう。やさしい腕で抱いてもらえる。生まれたばかりの赤ん坊には、彼女がこうして優しく撫でてくれる長い髪はもうあるわけがない。あぁ駄目だ、そんなの。髪を切ってしまっているじゃないか。この少女が切ってはいけないのだというのだから、この髪は切ってはいけないのに。大丈夫、僕に切れるわけが無い。どれだけの衝動が起こっても、彼女の甘くて溶け出しそうな朗らかな声や、無邪気な笑顔を思い描けば僕の幼い手は止まってくれる。切らない、切らない、切ってはいけない。

「うん、やっぱり、切らないよ。せっかく伸ばしたんだし」
それに、長い髪の胎児なんて、気持ち悪いだろう。言いかけた言葉が、自然と息と共に体内に取り込まれる。あまりにも自然に。だから僕はまだ大丈夫なのだ、まだ耐えていける。耐えられない日など、絶対に来るわけがない。僕は、ずっと、こうして生きるのだから。







BALDWIN

080924