「まったく、何て事をしてくれたのですクルルギ卿」
殊更に厳しい表情で、女史のような容貌の女が忙しなく目の前をうろうろと動き回る。正直その肩を軽く叩き、落ち着いてくださいと言ってやりたかったが、そんなことをすれば殴られるほど怒るであろうことは目に見えて分かっていたからしなかった。何より、悪いのは自分だ。そんな自分が、今、どんな正論を言ったところで何の効果も為さないのはわかりきったことだ。だとすれば、自分のすべきことは唯ひとつだ。それがすべきことでしかなく、何の効果も影響も為さないただの自己満足であっても。
「本当に申し訳ございませんでした」
日本人らしく丁寧に深深と頭を下げれば、彼女は呆れたような溜息を吐く。本来なら真っ先に謝るべき相手は彼女ではないのだが、それでもその当の本人と会うことは今現在、不可能だった。何しろ自分は謹慎中だ。そして、自分としては殴った相手よりもそれにより多大なる迷惑を掛けた彼女への方がよっぽど罪悪感が募っていた。言ってしまえば、立場を振り切れば彼女はまるで無関係な人だ。自分の感情のコントロールも侭ならない幼さから、こんな事件の尻拭いをさせてしまうのは本当に申し訳のないことだ。彼女もそんな自分の思いを察しているのか否か、先ほどからしつこく謝っている自分に対して特に何かを言い募る気はないようだった。ただ、視線でもういいと訴えているのだけはよくわかる。思ったよりも従順な態度を示されて居心地が悪いのかもしれない。
「まったく・・・気持ちは分からないでもありませんが、そうだとしても軽率です。あなたはナイトオブラウンズなのですよ?自覚がまるで足りていない。このようなことでいちいち逆行していては、この界隈を乗り切ることなど出来ません。わかっていますか?」
「仰るとおりです。自分も、余りにも軽率であったと深く反省しております」
「あたり前です。クルルギ卿、年配者として申し上げますが、理解も配慮もないただの付け上がった輩など放っておきなさい。相手をしたら負けだというぐらい、少し考えればわかることでしょう」
「・・・はい」
彼女は、変わらず険しい視線で自分を見ている。本当にわかっているのか、とそう問うているのはよくわかったが、それでも頷く以外に何も出来なかったのはきっと確信が持てないからだ。この先、同じような状況に陥って同じ事をしないなどと、ただ怒りに身を任せてしまった自分にはとても言えなかった。そして、あの垣間見えた美しさと安定の誘惑に、打ち勝つことのできる自信など到底ないのだ。ぎゅっと握り締めた手の平の中にあるのは、かの騎士章。あの時彼女の手から受け取った、僕が僕である所以のような気がするそれ。手の平に食い込んでいくその証は、とても硬くて無機質で、何の感情も優しさもないものだというのに、僕にはこれを掲げることでしか顕に出来ない思いがある。これは、空しいことなのだろうか。あの時、確かに明日を見たと思った。その瞬間に縋り続けることが、僕にとっての唯一の安らぎだ。未来もない、希望もない、こんな現実に唾棄されるような甘さがあの場所ではあたり前のように存在し、確信をもって揺るがなかった。もうあれは何処にもないのだ。今度は自分の手で作り上げなければならないのに、僕はこれを掲げることをやめられない。あの安らぎだけが生き続けている。下卑た視線を殴りつけた時に確かな快感を感じたこの手で、何よりも神聖なものを握っている。顔を上げれば、やはり彼女は眉を潜めて自分を見ていた。やはりこの姿は、酷く滑稽なのだろうか。
「失礼します」
静かな室内に、控えめな態度で現れた男はこちらを一瞥してから目の前の彼女を手招きする。どうやら、処遇は決定したようだった。貴族の男を、思わず殴った自分に対する処遇が。一礼してから出て行く男は、こちらに侮蔑の視線を殴りつけた。どうとも、思わなかった。ただ彼はきっとイレヴン、敷いてはナンバーズにいい印象を抱いてはいない男だというだけ。そして、それはこの国ではごくあたり前のことなのだ。覚悟を決めて、こちらを振り返る彼女の目を見つめる。相変わらず、呆れたような色がそこにはあった。
「クルルギ卿、処遇をお伝えします。夜まで、此処から出てはなりません。いいですね?」
「・・・それだけ、ですか?」
「ええ、そうです。ギルフォード卿へ感謝することですね。彼が、あなたの気持ちを汲んで取り計らってくれたそうですよ。あの伯爵の息子にも、皇族を侮辱したのだから非があると」
言い切ると、彼女はまた眉を潜めて溜息を吐く。思えば彼女がにこやかに微笑んだところなど見たことはなかった。いつもどこか、疲れたように眉を潜めて溜息をついている。彼女は、溜息を吐いたその口のまま「謝罪は後日、伺いなさい。わかっているとは思いますが、ギルフォード卿へも礼を述べておくように」と嗜めた。僕は、はいと答えるしかない。言われた内容に嫌悪感を感じるだとかそんなことではなく、ただ単純に彼女からの威圧感を感じる。それだけのことだ。そして彼女はまた溜息を吐く。酷く疲れたように見えるその人は、今度は少しだけ柔らかな目をして、けれど眉は潜めたままにこちらを見た。
「これは私見ですが」
一瞬の間が空いた。
「私も、死んだ人間よりも今生きている人間の方を重要視すべきだと、そう思います」
そうして、やはり眉を潜めたまま彼女は何者をも寄せ付けないような足取りで部屋から出て行く。どうやら、軽率な行動に出たことへの怒りと、含め自分そのものに彼女は怒りを感じているようだった。僕がこうして垣間見える安寧を捨てきれないのなら、お前は主が侮辱される度に力を振るう。それは何も変えることの出来ない、酷く無意味なことであるとわかっているのかと。でも、僕にとってそれはある意味で今得ることの出来る唯一の安らぎだ。ただ死んだ主である少女の為に生き続け、力を振るい続ける。証を掲げて、そうでしか顕に出来ない思いの為だけに生きる。過去に戻ろうと、ただもがく。馬鹿な話なのだ、きっと、それが何よりも魅力的に思える事だって。僕には遂げねばならないことがあるというのに。けれど、それでも僕が確かに明日を見たのは、あの時だけだ。あの瞬間、彼女が扉を開いた瞬間、僕は確かに先を見たのだ。下卑た視線を殴打した時、一瞬だけ見えた世界があの頃は永遠に続いているのだと思えた。なぁ、ならどう生きればいい。その一瞬の為だけに生きるのか、彼女の言うように今生きている人々の為に生きるのか。答えはもちろん後者なのだ、僕には遂げなければならないことがある。
(日本を解放しなければ、あいつを殺さなければ!)
でも、それでも僕が明日を見ることができるのは、彼女を貶める視線を殴打するあの瞬間だけなのだろう。生きていると、拳を握り締め殴打した感触だけが鮮烈に僕に告げた。なんて、酷い矛盾だ。過去を求める行為でしか、明日が見えないなど。いつだって、握り締めた騎士章が答えのように思えてならない。こんな今の姿を見て、あの少女は嘆くのだろうか、それとも叱ってくれるのか、笑ってくれるのか。でも出来るなら、許して欲しかった。どれだけ馬鹿な願いかわかっていても、そう思うくらいは許して欲しい。
(もう、思うだけでいいから、だからこれだけは)
だって、あの時僕は、確かに生きていたんだ。
080821
思い仕舞い込んだつもりでまるで仕舞い込めなかったスザク