ガタン、と何かが滑り落ちる音がした。


それは何に為り得るものだったのだろう、それとも何にも為り得ないものだったのだろうか。僕はどうしようもなく訳のわからなくなった頭で小難しいことを考えようとして、そしてさらに頭が痛くなった。細いくせに、妙に骨の張った肢体を見下ろしながら僕はただ熱に踊らされているだけなのだ、とわかる。彼は黙ったまま、何も言わない。目は焦点が合っておらず、白い肌は上気していて、彼は恐ろしいくらいに扇情的だった。普段からちょっとした仕草も絵になるほどに綺麗な人なのだから、あたり前といえばあたり前のことなのだろう。じっとりとした汗は、確実に滝のように流れ出ているのに僕らにはそれがわからない。ただ熱いと思う。きっと、こんなものだ。僕らには其処にあるものを確信を持って把握することなど、不可能なんだろう。焦点の合わない、美しい深紫の眸を覗き込めば、彼は少しびくりと肩を揺らした。何かに身体が反応したのだろう、と思ったのは僕が別におかしいからじゃない、当然の状況的判断だ。なのに、彼の表情が扇情的ではなくただ単純に不安げに歪められたことに気がついて、僕はとても大きな罪悪感と背徳感を背負った。ごめん、と思わず謝るが、何が、と返してくるその表情はまたさらに不安げで、険しくなる。「それ、癖なのか?」彼は言うが、僕にはそれの意味がまるでわからないから黙っていると、「ごめんって、すぐに謝る。癖にでもなったのか?」と少し怒ったように言う。謝罪も、感謝も、彼にとっては安売りするものでもない。たぶん、社交辞令としてのそれならば充分に会得しているのだろうけれど、僕の謝罪は誠意がないくせに心がこもっているということを、彼は感じ取ったのだろうか。謝りたいわけじゃない、だけれど、僕自身が相手に対して劣っているから謝る。僕の謝罪を、そう解釈するのは間違いではない。言ってしまえば、僕はこの世の全人類に比べて劣っている。それはあたり前のことだ(口に出せば彼はきっと怒るだろう)。
「簡単に、謝るものじゃない。特にお前の謝り方は」
こういうことを今でも言ってくれる彼はきっと僕のことが好きなんだろう。だけれど、僕はどう考えたって全人類に比べて劣っている。だから、少しだけ身じろぎして、そして無理矢理に言葉を切らせた。代わって、聞こえたのは艶っぽい嬌声だった。表情が不安げなそれから、また扇情的なこの場に相応しいものに変化し、べたべたとした熱が再び頭をおかしくさせた。
「ねぇ、ルルーシュ」
呼べば、彼はとても声を出しにくそうに、けれどきちんと「何だ?」と答えた(やはりどこか上擦ったものではあるのだけれど)。彼は律儀にも、ゆっくりと顔を上げ深紫の眸をこちらに向けて、口元で微かな笑みを見せた。僕がそれをとても綺麗だと思ったのは、たぶん少しばかり泣きそうな気配があったからなのだろう。「ねぇ、ルルーシュ」何も言うことなどないのに、もう一度呼ぶ。彼は、さらに笑みを深めるようにして、何故か僕の右瞼に触れてきた。不思議だと思う。この世界で一番劣っている自分に、なぜこの人はこんなにも優しく触れて、笑いかけてくれるのだろう。よくわからない、と思いつつもやはり彼は僕のことが好きなのだ、ということだけは知っていた。それが傲慢なのか、ただの事実なのか、そんなことはわからないが。「ねぇ、」三度目で、彼の顔からは笑みが消えた。残ったのは、少しばかり泣き出しそうでけれど必死でそれを堪える、幼い子どもの表情だった。そういえば、彼は昔近所の子ども達に殴られた時、こんな顔をしていたような気がする。痛くて泣き出しそうで、けれどとても強い矜持と意地を持つ表情。そこで気がついたのは、今の彼はただ単に痛くて泣き出しそうなだけの顔をしているということ。珍しい、と思った。矜持も意地もない。ただ単純にやさしい人の顔。僕は、それを呆然と見つめながら、彼が右瞼を撫ぜる感覚を熱っぽい中で手繰り寄せるように探す。やさしい手付きに、見つめているこの表情。彼がただ弱いだけの人のように思えてきて、僕も少し泣きそうになった。「ねぇ、ルルーシュ、どうしたの」四度目には、問いがついた。呼びかけるだけじゃなくて。
「、スザク」
息を切るような呼びかけは、やはりどこか弱々しく今にも消え入りそうだった。ねぇ、本当にどうしたの。そう聞きたくて、けれど聞けないのは鈍感な自分にもありありと感じられる、この切迫だ。なんだか、今にも飛び降り自殺をしそうな人くらいに、繊細なものが此処にあるような気がした。自殺と彼なんて、どこでどう繋げようとしても繋がるものではないのに。そんなことを思っていれば、彼はまたさらに泣き出しそうに目を細めて「悪かったな」と言った。僕は、瞬間、耳を疑った。よくわからなかった。何に対して(たぶん僕なのだろうが)の謝罪なのかとかではなく、彼がまるで意味のないように思える謝罪を口にすることそのものが訳がわからない。彼にとっては、それは決して軽薄に扱われるべきものではないのに、何故。今の自分は困惑をありありと現しているのだろう。彼は、そんな僕を見ながら泣きそうに笑って、呟いた。
「お前を守りたかったんだ」
消え入りそうに紡がれたその言葉を、与えられる資格など自分にあっただろうか。けれど、資格はないとしても、今僕は彼からこの言葉を告げられたのだ。それは、どうしてなのか。痛いほどに分かるその理由そのものがどうして、此処にこうしてあたり前のようにあるのかが、僕にはわからないのだ。事実として言えば、僕は彼だけじゃなく、様々な人に守られている。この平和な場所において湧き上がる疑念や噂に戸を立ててくれたのは彼を含めた生徒会の皆で、そしてあの柔らかに笑う少女はそれこそ、守るべきは自分であるにも関わらずこちらを大きすぎる圧制の中で必死で守ろうとしてくれる。それは先日の出来事からしても明らかな事実だ。でも、それでもやはり彼らのやさしさは、自分に向けられるべきものではないと思う。右瞼を這う線の彼の細い手が、ゆっくりと下ろされていくのが見える。(この手だって、きっと本当は)彼は、泣きそうな顔ではあったがやはり綺麗に笑っていた。深紫の眸が、不可思議だけれど美しい光彩を放ちながら細められる。やさしい色だ。(ねぇ、ルルーシュ)僕は何にも劣っているというのに、それらはどうして此処にあるのだろう。優しさや笑顔が僕に向けられるのはどうしてなのだろう。誰かの手を煩わせる自分など、さっさと、今すぐにでも死んでしまうべきだというのに。そこまで思って見下ろせば、やはり深紫の眸がやさしい色を放ちながら僕に向けられていた。思わず言葉を失いそうになるような心苦しさの中、少しの間があって


ガタン


と何かが滑り落ちる音が聞こえる。それが懐中時計が落ちた音なのだと気が付いたその数瞬の間に、熱っぽいこの空間の中で、ぷつりと意識が途切れたような気がした。







080518
生きろギアスについて