今、私の目の前には、竹篭の中に収まったいくつかの林檎がある。それらはあの離宮でみたものとはどうやら品種が違うらしく、この日本の地で育てられたもで、色合いは赤く艶々としたと言うよりもほんのりと緑がかってくすんでいた。けれど瑞々しさと、見た目に違わぬ少しの重みはとても似通っている。目を細めながら、いくつかの内のひとつを手に取り、指先で撫ぜる。少しだけざらざらとしているはやはり品種の違いなのかしら。けれど控えめに馨る蜜の匂いが、食欲をそそらせた。
「・・・誰かに頼んで、切ってもらいましょうか?」
この蜜の匂いと同じように控えめに、そう問うてきたのは、少しばかりの困惑を顔に浮かばせたスザクだった。その顔が近付いた瞬間、私はふと我に返り今が公務中であることを思い出して、慌てて手に取った果実を竹篭に戻す。「・・ユフィ?」戸惑いがちに呼ばれた名前に、焦りながらも嬉々として振り返り「大丈夫です。公務中だもの」と笑ってみせたが、身体は正直だった。低い、何かが搾り取られるような音が鳴って、それの正体に気付いた途端に私は真っ赤になり俯く。くすり、という相変わらず控えめな笑いが妙に大きく聞こえた。
「もう笑わないで!」
そう反論すると、彼は表情を少しばかり冗談めかした真面目顔に変え、「すいません、皇女殿下」と揶揄するように言う。含まれているのは、ほんの少しのからかいと、そしてスザクの優しさだ。そう思うと、その言葉は私がいつも彼には呼んで欲しくない肩書きを含んでいるのにとても愛しいものに感じられてくる。私は少しだけ俯いて、なんとなく、微笑んだ。あの時と同じように。
「・・・ユフィ?」
訝しげな声がして、ややあって私は満面の笑みを浮かべながら顔を上げる。いつのまにか心配顔になっていた彼は不意を突かれたのか、少し仰け反ってしまっていてとても面白い。
「じゃあ反省の印として、この林檎を誰かに切って貰うように頼んできてください」
からかうように言えば、彼は呆れたようにでも嬉しそうに薄く息を吐いて「承りました、皇女殿下」と恭しく礼をする仕草を見せつつ、身体を折る。でも、表情は冗談めかした先ほどの顔とまったく同じだ。お互い目が合ってからまた噴出してしまったのはきっとしょうがないことだ。そしてスザクは姿勢を戻すとじゃあ頼んできますね、と優しげな声音で言いながら、デスクの篭を手に取った。途端、そこにある果実に向けられた目が郷愁をもって細められたように見えたのは、たぶん気のせいではないのだろう。この日本の地の産物であるのだから今まで違う品種を見てきた私と違い、この色を見慣れて、そして食べ慣れて来たのだとしても何もおかしくない。そう思うと、ほとんど無意識の内に私は彼が少しばかり浮かせたその竹篭に手を伸ばし、ひとつの果実を手に取っていた。
「えっ?」
不思議そうな声がして、でもそれを聞きながらも私は手を止めずに、それを口まで運ぶ。そして、つい先刻まで色鮮やかに思い出していたあの出来事をなぞるかのように、ゆっくりと、齧る。ほんの少しの皮の苦味と、甘い蜜の味、今まではあまり感じることがなかった酸味。それらがふわりと口内に広がる感覚。確かに味は違うけれど、でも何故か心惹かれる感じはまるで変わらない。私は、さっきより一層、けれど自然と笑みが深まるのがわかった。おいしいものを口にした喜びと、それ以上にあの場所で過ごしたなつかしさが胸に染み渡ってゆく気がするのだ。あたたかいのに痛い、この感覚は何度か経験したことがあった。なつかしい、今は亡き人々がいたあの情景、そして教えてくれたこと。ゆっくりと広がってゆく果実の味は、この食べ方でしか感じることは出来ないものだ。ねぇ、スザクは、知っているのかしら。ふと視線を上げれば、目をまんまるくしたスザクは呆然と立っていて、やはり皇女がこんなことをするのは彼にとっても驚きの対象でしかないのだろうと思った。なんだか、昔の私みたいに驚いてるわ。くすりと、少しばかりの笑みを零すと、スザクも少し我に返ったような風になる。
「教えてもらったのよ、大好きな人たちに、昔。これが一番おいしい食べ方だって」
そう言うと、「そう、なんだ」ととてもぎこちない返事が聞こえて、私はさらにおかしくなってしまった。「もう、そんなに驚かないで、スザク」と言うと、「うん、でも」とさらに覚束ない返事、のように聞こえたのだが、彼は意外にもそのまますらすらと話し始めた。
「いや、昔にね。その人も絶対に丸齧りなんかしなさそうなのに、林檎をあげたらいきなりそうやって、それでこれが一番おいしい食べ方なんだって、言った友達がいたから」
だからすごくびっくりしたんだ、と彼は繋げた。私はそんな彼の話を聞いて、なんだかこれ以上とないほどの嬉しさや高揚を感じた。あの優しい人たちの教えを、まるで知らない人が知っていて、そしてその人はスザクにそれを伝えてくれたのだ!目尻が少しだけ熱くなったのは、あの人たちのことが本当に心の底から大好きだったから。ただの偶然でしかないのだけれど、それでも私はその繋がりだけがあるというだけでとても嬉しい。もういなくなってしまった人たちの言葉が残っているというだけで本当に嬉しい。
「・・・すごい、偶然だね」
そう言ったスザクは、なんだかとても妙な顔をしているようにも見えるけれど、それでもやはり嬉しそうな顔には違いなかった。「そうね。本当にすごい偶然」言いながら身に余る高揚を抑えつつ、私は手の中の果実をそっと差し出す。スザクは私がこう出るということはわかっていたようで、眉をほんの少し下げて苦笑した。
「・・・いいんですか?」
「いいんです」とにっこり笑えば、彼は竹篭をデスクの上に戻し、なつかしいはずのその果実を手に取る。

「一番おいしい食べ方じゃなくちゃ、駄目よ」

彼はまた曖昧に、だけれど優しげに笑ってその果実を口元やった。私はたぶん彼の食べ痕は私のものよりずっと大きいのだろうだとか、今度は私の祖国の味を彼に楽しんでもらおうとか、でも控えめな彼にはあのどちらかと言えば華やかな感じの味は向かないかも知れないとか、そんなことを考えた。考えて、そうして彼を見る。齧ったばかりの果実を手にしながら、その目は優しさとなつかしさといとおしさだけで染まっていて、そして少しだけ、泣いているようにも見えたのだ。







群青三メートル手前

080724
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