リナリーは自分と彼のことを「会ったら必ず喧嘩する」と言った。自分もそうだと思う。なんだかよくわからないけれど、本当のことだった。大部分の原因は彼の奔放な発言にあると思っているのだが、それに焚き付けられる自分も確かに普段の行動と比べて少し変だろう。ラビにそれを言ったところ、「じゃあ話さなければいい」と言われた。確かにそうだ、と思ったが同じゼミである彼と自分が例え顔を合わせないとしても伝達しなければならないことだとか、そんなものがたくさんあるわけで。「それは無理だ」と告げる。そうするとラビはじゃあメールだけの会話にすればいい、と言った。あぁなるほど。例えば同じ研究室にいてもメールで会話していれば喧嘩なんかしなくて済むのでは?という意見だ。それには納得した。例えばあの神田が、用件以外の無駄なことをメールに書き記すとは思わない。そうすれば自分も焚き付けられず何か無駄なことを書くこともないだろう。ラビ曰く、電話は絶対に駄目、だそうだ。口っていうのは本人と意識とは別に動いてしまうことが多いからだそう。思い当たるところは死ぬほど、というくらいにあったので、まるで反意はなかった。
そしてそれからというもの、自分と彼の会話は圧倒的にメールが多くなった。決して顔を合わせまい、というのが目的なので、状況は傍から見ればそんなに変わらなかったかもしれないが、ラビからすれば「劇的な変化」らしい。言わせてみれば、自分達は会う度に喧嘩をするのではなく喧嘩をする為に顔を合わせているのだ、という。そんな馬鹿な話があるか、と一瞥してやったが、ただそんなラビ曰く「劇的な変化」が訪れてから、自分は自分の中の奥底で気が付かない内に何かを根こそぎ奪われてしまったような気分になった。なんというか、リビングルームから入ってきた泥棒を見ながら、「其処にはなにもない」と高を括っていると、いつのまにかその高笑いの間に泥棒に寝室に侵入され、どこにしまっていた忘れていた思い出の品を見つけられもっていかれた。別の場所からの侵入が、他への侵入を許してしまい、仕舞いには其処にあったものを盗られた。回りくどいがそんな気がした。そしてその例えでいくと、神田との喧嘩は自分にとってどこにあるかわからない思い出の品なのだ。正直よくわからなかった。とにかく、それが自分の日常の中の何かを占めていた、ということはわかった。それは癪でもあり、当然のことのようにも思えたのだ。
そうして「劇的な変化」から大分経った頃、自分は教授からの彼への言伝を頼まれ、言われた内容をメールにそのまま打ち込んだ。ピッピッピッ。機械音が綺麗に鳴った。そうしてそれを打ち終り、じゃあ送信しようかという時になって何故か物足りなさを感じた。そして寂しくなった。どこかにあるか忘れてしまった思い出の品の大事さに気付き始めた、のか。よくわからなかったが、とにかくその送信をやめにした。こんなもの送って返ってきたって、きっと何も嬉しくない。いや、嬉しくないのは元より承知だが、どうも好ましいようにはならない。ということで、自分はピッピッと再び打ち始める。電話番号だ。ラビから「絶対にやめといた方がいい」と言われた電話番号。丁寧に押し、通信ボタンを押す。プルルルル、自分は普段はあまり電話はかけないので、それはどこかなつかしさ感じられる呼び鈴だった。プルルルル、鳴り続ける音がどこか滑稽に聞こえてくる。しばらく其れが続き、そうしてプツッと切れた。なんだ、出ないじゃないか。もう一度掛けてみるが出ない。自分はあっさりと諦め、途方に暮れたように色々な色に輝く空を特になんとも思えない、というような気分で見ながら、言伝をそっくりそのまま打ち込んだ。味気ない、とかいうわけじゃなくて、何故だか物足りない。渋りながら送信ボタンを押し、そこではぁと一息ついた。なんだか妙な気分だった。
数日経ち、また自分は教授から彼への言伝を頼まれた。なんでいつも自分に頼むのかと問いたいところだったが、
彼のどことなく頼りなさ気な風貌から理由は察された。どうやら無口な彼が恐いらしい。自分はまたいつかの日と同じように、ピッピッピッと機械音を鳴らしながらそのままの内容を打ち込む。けれど、また物足りなさを感じやめ、今日も電話にしてみようと、そんな小さな決意をした。電話番号を打ち込む。ピッピッピッと等間隔に音が鳴る。ふっと空を見ると、先日のように色々な色を持っていて、そうして今はそれを「綺麗だ」と思えるだけの余裕があることに気が付いた。たぶん、また出てくれなければそんな余裕は消えてしまうのだろう。最後の4桁を打ち終えて、通信ボタンを押す。プルルルル、左耳に電話を押し付けると、規則的なあの時と同じ呼び出し音。それが2回、3回と続き、けれどピッという受け取る音がするわけでもない。あぁ、またか。どうして出ないのか、それでは携帯電話の意味がない、と理不尽さを嘆きながら、もう一度かける。プルルルル、もう聞き飽きてしまった、この呼び出し音なんか。2回ほどその飽きた呼び出し音が繰り返されたあと、どこかであのよくある携帯の着音が流れていた。右耳が捉えたのだ。ハッ、と思い振り返ると、彼がいた。こちらには微塵も気がついていないようだったが。久しぶりに顔を見たなぁと思いながら、彼がその骨は剥き出しにされてしまったような長い手で電話を取り、何かボタンを押すのが見えた。ピッ、呼び出し音が止まるのを、左耳が捉える。少し笑いながら『アレンです』と言った。
『なんだ?』
『教授からの言伝です。ところで』
『は?さっさと言えよ』
くすくすと笑っていると、向こう側のよくわからない、という空気が心なしか伝わってきた。それがまたおかしい。『ねぇ、相手が見えてるのに電話で会話するって、変ですね』とだけ言った。彼はまたよくわからない、という空気を流す。何故かそのとき、彼は急にその場から歩き出して、自分の前から姿を消した。気づいたわけではないのだろうが、もしかしたらそっちの先に自分がいると勘違いしたのかもしれない。というか、実際そうなのだろう。寂しいと、思わなかったわけではないのだが、それでも可笑しくて笑ってしまう。そして足を一歩前に出した。右足が先だった。電話先では相変わらずよくわからない、という空気が流れているように感じる。自分はそんな空気は気にせずに少し笑いながら、さらに左足をも踏み出す。それから『ちょっとその場で待ってて下さい』と一言だけ告げて、電話を切った。ツーツーツーと、余韻の残る音が電話口から聞こえてくる。なんて渇いた音なんだろう。今度は苦笑をしながら、一歩だけ進んだその場所を起点として自分は火を付けられたように或いは鞭で打たれた馬みたいに、小走りになって進んだ。そうして角を曲がろうとした。けれどその直前で、なんとなく焚き付けられた火だとか鞭で打たれた痛みだとかが一気に引いてしまった気がした。どうせ、口喧嘩しか、しないのだろう。自分は再び携帯電話を取り出すと、異常なまでの早いスピードで教授から聞いた内容を全て打ち付けた。素早い動作でそれを送信し、携帯を閉じる。彼を追いかけよう、という思いはまた自分の手で自分の中の奥底へねじ伏せられてしまった。
「泥棒は自分か。」そんな絶望感が、しばし頭の中で点滅するのを止められない。
080216
「通信機の向こう側」より残留