彼は醜く笑っていて、そしてその笑いは私のものではないのに、私自身を露呈しているようで嫌だった。自身の内にあるものに対し目を背けようとした私は、その醜く笑う彼の漏らした息で、再び見たくもないそれに目を向けてしまう。あぁわかってるわよ。向かなきゃいけない。私は濁流のように押し寄せるひたすらに汚さだけを露呈するその溢れ出た雰囲気に、目を瞑りたいと思いながら必死の思いでその男と視線を交じあわせる。彼はやはり醜く笑ったままで、その口が咥える煙草は、とんでもなく嫌な香りを放ちながら容赦なく私に迫ってきていた。顔を顰めてみるけれど、彼はその嫌な香りを放つ煙草を捨てることはなく、むしろこちらに煙を吹きかけるとでもいうように自身の位置を変える。嫌味な男だった。全てを露呈することに(しかもそれは自分のではなく他人のものである)、全力で取り組んでいるどこまでも嫌味な男だった。私は目を開いていることで必死で、変わらずに濁流のように押し寄せる汚さを、どうにかこうにか享受しようとしながら、それでも目の前の彼に対する怒りがふつふつと湧いてくるのを感じる。その煙と汚れで腐ったような時間が何分だったかなんて知らないが、彼はフィルターぎりぎりのそれを地面に落とし靴の裏で掻き消すと、さらに胸ポケットから2本の煙草を取り出す。そして手招きのように掌をふらりと宙に浮かばせた。呼んでいるのか、と思い私は濁流に逆らいながら彼に近付いた。顔つきは険しく、また息は荒ぐばかりで、けれど怒りだけが鮮明になっていくのだ。
「吸ってみろ」
彼はご丁寧にライターつきでその煙草を私の掌の上に乗せる。私は得体の知れないものを見るような目で、それを握りつぶそうとしたけれど、できなかった。きっとこれを握りつぶせば、私は私を握りつぶすことになるのだと思う。そして、ぎこちなくそれを中指と人差し指で押さえ、咥えてから火を付ける。ぼうっと、目の前で明るく灯ったそれと共にじわりと広がる不味さと、嫌な香り。鼻が麻痺しそうになる。私はげほげほとむせながら、釣りあがったような目で彼を睨んだ。「不味いわ」、そう訴えたけれど彼はまるで意外そうではなく(そんなことはわかっていると思うけれど)むしろ楽しげに醜く笑った。頭がおかしいわけではないのだろう。けれど、何かの極限地に彼が達しているということはどことなく感じ取れた。
「鼻をおかしくするには丁度いいだろう」
「・・・おかしくしてどうするの」
「そのままだ。他の匂いがわからなくなるだけだ、あの馬鹿みたいに」
私は息を呑んだ。鮮明に瞼に焼き付けられた記憶がフラッシュバックして、くらくらとした。彼のことか。私は理解したのかしていないのかもよくわからない頭で、中指と人差し指の間で潰されていた煙草をもう一度咥える。鼻が麻痺しそうだ。でも、それでいいのだと誰かは言うのだろう。思い切りよく、不味さは口中に行渡り、同時に狂ったような匂いが占領していった。生理的な涙を目尻に溜めて、私はそこで耐え切れなくなってまた煙草を離す。大きく息を吐き出し、その分をまた吸ったけれど、入ってくるのはあの香りだけで何も良い気分などしなかった。「彼は、麻痺したわけじゃないわ」何の根拠が其処にあるのか、わからないことを口走る。隣で悠々とあの不味い煙草を吸い続ける彼は煙草を口から離す。「それはお前がそう思いたいだけだ」溜息と同じような要領で吐き出されたそれは、私を刺した。知っている。そんなこと。彼が激流の中で手を伸ばした極限地がどんなところだったかはわからないが、それでも其処を自らの足で踏む為には、何かが麻痺してしまうだろう。というより、麻痺させなければならないのだ。知っている。けれど、理解はしていなかった。私はそれにぶつかったことはあれど、そんなものは比べてみれば子供のお遊びのような衝突で、辛さは知識としてしか認識できていないのだ。
「私は、彼が心配だった。ずっと独りで戦っていたから」
吸われる事もなく、ただその身を削らされていく煙草は、やはりまた私の中指と人差し指の間で潰れている。じわりとした熱さが指に近付くのを感じながら、私はただ地面を見ていた。あの濁流は、頭上からひっきりなしに流れてきて、思わず頭が下がってしまうのだ。そして目を向けなければならないそれは、頭上から私の足元まで流れ込み、その汚さは嫌でも私の網膜に焼き付いていく。
「今は、彼自身はどうなのかはわからないけれど、でも私から見たら、強いわ。すごく。迷いがないんだもの。でもそれが怖い。彼の前には、他人の為のレールがひとつあるだけよ。ねぇ、彼は彼の為に生きたことはあるのかしら?」
醜い笑みは、まだ変わらずに頭上にあるのだろうと思う。流れてくる濁流が、変わらないのだ。私は自分の指に刻々と近付いていた焔を掻き消そうと、煙草を地面に落とし、ローファーの底で掻き消した。嫌な匂いはまだ鼻に鮮明に残っているし、舌にはあの不味さがこべりついている。唾液を躍らせてみたところで、とれやしない。私は渇いた咽を押さえるようにしながら、上を見上げた。やはり、あの男は醜く笑っている。一体何がおかしいのかなんて、私にはわからなかった。そうして変わらない汚らしいものを濁流のように流しつづけるから、私はそれを直接に目で見た。足元に落ちたものではなくて、溢れ出たばかりのそれを。どうしようもなく汚いそれを、飲み下して胃に入れることなんて、例え味覚障害があったとして無理だ。私は見上げたまま、思い切り男が吸っている煙草が発した嫌な匂いを吸い込むと、どこもかしこもざらざらになった自分を嘆こうとした。
080216
残留