その時、自分が目の当たりにしたのは酷く荒んだ目、肌、髪。本来ならば柔らかなはずの幼子の掌は今にも崩れていきそうな程。重く、沈んだ表情。けれどそれらを全て払拭するような、甘い声。驚いたものだった。綺麗な声だと私は心の底から感動した。抜けるような、甘く高い幼い声だった。今にして考えてみれば、私にとって人間の声とは、殆ど自身の祖父のものしか聞いたことがなく、稀に村に住む大人達のひそひそと翳るように話す声を遠くから耳にするくらいのもので、それらはどれも枯れていくような、萎んでいくような寂しさと擦れを持っていた。綺麗だとは、私には思えなかった。唯一聞くことの出来る幼い声は自分の声だけだったのだが、私は自身の高いくせにくぐもったような声があまり好きではなかった。甘さがまるでなく、死に際の鳥の囀りのような声だったから。だから、美しく甘さを伴う高い幼子の声など、聞いたのは初めてだった。恐らくは。
「あ・・・」
漏れた言葉は、言語ではなかった。そもそも、幼子を見ることすらほとんどなく、そのぼろぼろながらも小さな自身と似通うような姿にも感動を抱いていたのかも知れない。純粋に嬉しかったのだろう。私は目を見張った。翳った表情が、ゆっくりとこちらに向くのが判った。その顔は俯いていたとき同様に、やはり重く沈んでいたけれど、とても美しいとすら思えた。こちらに向いた顔は、意志を持った目で私に言葉を知らないのか?と問うてきた。慌てて頭振ったのは、喋ることができないという誤解を一刻も早く解きたかったからかも知れないし、言葉を知らなければ彼は帰ってしまうのかと心配になったせいもあったかも知れない。どっちにせよ、私は自分は話せるということを主張するように「朽葉だ!」と叫んだ。目の前の幼い顔は、満足そうにではなかったが、ふと重く沈んでいた表情を緩めた。あぁ、嬉しい。私は叫びたいほど、喜んでいた。だから彼の話すそれらのことは、殆ど頭に入っていなかったのだ。ただ、私はその初めて聞く甘い声を、ただ断片的に音として拾い上げているだけだった。あぁ綺麗な声だと心の底から思いながら。





今、目の前にする彼は、崩れていきそうな幼子の掌など持っていないし、あの時聞き惚れた甘い声は鋭く尖ったような低音に姿を変えていた。表情には並々ならぬ覇気が漂っていて、あの頃の重く沈んでいたあの顔とは、似ても似つかないほどに精悍だった。恐らく、彼は強くなっていた。こちらを覗き込んだ目には強い光があり、余計に強くそう感じてしまう。あぁ彼は変わったのだ。思うに、いい方向へと。私は何故かそのことを悲しく思った。それが何故であるかかがわからないのが、私の弱さであるというそれすらも、多少は察しつつもわからなかった。息を吐く。それが落胆だったのか、単に吐いただけだったのかもわからない。ただそれは、ふと、遠くを見つめていた彼の視線をこちらに寄越す要因に為った。

「・・・お前は、いつまでそうしている気なんだ?」
それは、まるで修行僧のように頑なな姿勢で地面に正座をし続けることへ対してとこの状態に至った最もな原因に対しての両方であるのだろう。自分は、膝の上で両手を強く握った。そうしなければ、彼の強い光を持つ視線に耐えることが出来なかったのだ。
「・・・此処が私を解放するまでだ。必要があればいつまででもこうしているぞ、私は」
強張った声で答えると、彼はふっとこちらを卑下するような表情をする。あぁまただ。私は握った両手に痛みを感じる。強く握りすぎて、指の付け根に短いはずの爪が食い込んでいた。彼はまたあの視線をこちらに据える。吐き出される声は、やはり鋭く尖った低音で、言葉は投げ遣りだった。
「そんなことをして何になる?まるで意味がない。其れはお前から一生離れない」
吐き出される言葉の、全てが冷たく、凶器と化していた。幼い頃、ああして出会った後、私たちはよく口喧嘩をしていた。それが口喧嘩で済まされるような議題であったかはともかくとして、とにかくよくしていたのだ。それは主に、私が自分を妖ではないと頑なに主張していたからだった。今こうやっているのと同じように、ひたすらに同じ言葉を繰り返し繰り返し叫んでいた。その度、彼はとても悲しそうな顔をして、そして歯痒そうに何かを言った。覚えてはいないが、恐らく、今私に言っていることと似通ったことを言っていた。けれど今のように、確信のある言葉では到底なかったということははっきりわかる。あの頃は、きっと彼自身も揺れていたのだろう。理屈じみた語り部ではあったが、いつも今にも泣き出しそうな顔で私と喧嘩をしていたから。けれど、今は、まるで違っていた。甘い声はもう、どこにもない。あるのは強い意志だ。そして私はそれを悲しいと思う。そうか、自分はただ、自分と似たような脆くて馬鹿で幼い頃とまるで変われない人間がいたら嬉しいなんてそう考えていたのか。
(それこそ、本当に馬鹿だ)
泣き出しそうになって咄嗟に目を逸らし、俯く。それでも彼の鋭い視線が自分を刺しているという事だけはよくわかった。耐え切れずに「私は・・」と、続くともない言葉が漏れ出る。その声は、音域は高いけれどくぐもっていて、よくよく思い出せば幼い頃の自分の声のままだった。私は何も変わっていない。あの頃と違って、剣は扱えるようになった。まともに喋ることが出来、まともに人と接することも出来るようになった。けれどそれが、何ひとつ根本的な解決に繋がらないことはよくわかっている。結局、無駄な意地を張り頑なに何かに縋りつく幼子と同様のことをしている。
「・・・私はッ」
やはり続きを、紡ぐことが出来ない。真っ白になった頭を抱え込みながら、私はもう一度視線を上げた。先には、彼のとても強く鋭い目線があり、私の視界は歪んだ。泣いては、駄目だ。それは判っているのに。
「お前に、その先は言えないんだろう?」
今までひたすら強いだけだった語調に、どこか哀れむような風の柔かさが含まれていて、けれどそれはあの頃の甘い声とはまるで違うものだ。彼は、強く鋭い視線を放つ目を少しだけ細めていた。そう、この先、恐らく私が言うのはただの子供の言い訳だ。彼が哀れんで目を細めてしまうほどに無様でしょうがない、答えもましてや意味もない言い訳。歪んだ視界は、一瞬だけ正常になり、私は自分が涙を流してしまったことを悟った。悔し紛れに地面を叩いた。ざらついた砂が、掌にこべりつき傷つけた。でも、そんなものはどうでもよいのだ。涙さえ止まってくれればそれでいいのだ。私は再び俯いて蹲った。まるで、親に叱られた幼児のように。その時、彼が悲しそうな表情を一瞬だけ見せたことに、私は気が付かなかったわけだが。





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