「ねぇ、どうして泣くの」
やさしい声がする。それに呼応するように、真白いベットのシーツに染み込んだ真っ赤な血は次第に広がる。それは私の、腰を落ち着けているそこから広がっている。チェックのスカートがひっそりと赤で濡れていて、足を伝うどろどろとした液体がまたひとつまたひとつと降り立つ。広がる。その繰り返しだ。そしてその上に、私の涙が降り注ぐ。お腹が、私のからだの真ん中が、鈍い痛みを湛える。じんじんと、それこそ頭まで痛くなってしまいそうなくらい。でも、痛くて泣いてるわけじゃない。零れ落ちてゆく涙のあてどなさは凄まじいものがあるけれど(あくまでも、私にとっては)、でもそれだけはわかるの。女は痛みに強いのだと、誰かが言っていた。
「泣くことなんかない、名誉なことよ」
そう言って、彼女は私の頭を撫ぜた。その手は細くて丸みを帯びている、目の前にある肩もおんなじ。ふっくらとした胸が、白いブラウスの下から存在を主張する。私の震える肩を、頭を撫ぜた手を下ろして彼女はそっと、やさしく掴む。女の子にしか出来ない、繊細さで。私は涙を流しながら、血の痕を見下ろす。そうすると、私の膨らんだ胸が否が応にも目に入って、こんな時だけはそれが恨めしくて思わず硬く瞼を閉じる。その時また、私のからだの中心がぎゅっと縮まって、にぶいにぶい痛みに襲われた。それを察したかのように、肩を抱く優しい手の持ち主は、長い睫で象られた瞳で私を覗き込む。私も、それを見る。涙が溢れる様が、黒い瞳に映っている。それが、やんわりと細められた。
「痛い?でも、素敵なことよ。いつか赤ちゃんが生めるのよ。私たちにしかできないの」
そう言って笑う。綺麗な微笑み、やさしい眼。はっきりとはしない鎖骨の形、白くてやわらかそうな肌。同じもの、それらを私も持っている。少し色黒で、彼女ほど豊満ではなくとも、けれど女性らしいと言うにはまるで差し支えないくらいの、そういうからだを私も持ってる。それを恨んだことは、たぶんない。そう思う。胸がもっと大きくなればいいと思ったし、腰のくびれも気にした。がんばって肌の色を白くしようと、化粧品の情報をたくさん集めた。それらは酷く楽しかった。でも、それでもこれだけは駄目なの。流れゆく血潮が、私の性別を如実に主張していく。これだけは駄目、これだけは。決定的な違いである、この現象。ねぇ、これだけはやめて。私の持つ性器を形を主張する、こんなのは嫌なの。悲痛な思いが胸の内で湧けば湧くほど、私の涙は溢れていく。
「わずらわしいんだ。痛いし」
「そう?」
彼女の笑みは、さらに深くなる。霞んだ視界であっても、よくわかる。
「私はうれしかったな。大人になれた気がして」
じんわりと、言葉が音のようにからだに響いて、そして私は絶望を覚える。大人って、つまりは、ねぇ。
おんなに、なるの?
そう呟くと彼女はまた笑う。艶やかな笑みは、いささか女性らしい。同い年なのにな、と頭の片隅で考えて、ふと私がこどもっぽいだけかも知れないとそう思う。またからだの中心が波打つようにして、たくさんの血を吐き出した。じんじん、と鈍い痛みが走る。目の前の少女は、一瞬だけそれがシーツに映し出される様に目を遣り、また目じりをさげる。
「なりたくない?嫌?」
「・・・わからない、でもすごく怖いから」
呟くと、少女はふと表情を暗くさせた。傷つけたような気がして、慌てたけれど何も出来ない。やさしいだけのはずの感触が、少しばかり強まる。肩を抱く手に、力が篭ったのだろうか。その手が掴むのは、とてもやわらかい肉体(私はおんなだから、やわらかく丸みを帯びた肩を持つ)。嗚呼少しだけ、痛い。彼女は、そのふっくらとした唇を開き、幾分か硬質さを持った声を発した。「じゃあ、男になりたい?」と、そう問うた。真っ直ぐ、真っ直ぐとした目が、それでもやさしそうに見えるのは何でだろう。その誠実さに答えるように、私は涙を絶え間なく流す目に彼女を真っ直ぐに映せればよかったのだけれど。でも、私はそんな硬質な思い、下に広がる血を見たなら、しゅるしゅると消え去ってしまうの。俯いて、だだをこねるこどもみたくなってしまった。
「それも、嫌なの」
そう、嫌だ。なんて堂堂巡り、私は何になりたいの。おんなにはなりたくないの、何故だかわからないけれど。でもおとこになりたいだなんて、そんなことを口にしたり思ったりすることなんて、まったくない。どれにも、勇気が湧かない。私は、なにになりたい?
「それならね、ねぇ」
「なに?」
「どっちにもならなければいい」
爽やかな少女の笑みは、まるで悪巧みをするいたずらっ子のよう。私は、縋るようにそれを見た。何になりたい、もう、一層のこと全て捨ててしまいたい。おとこになんてなりたくない、でもおんなになりたくもない。こども生みたいなんて思わないし、私は私自身が大事なのだ。きっと、そう。だから彼女の言葉は、どこか輝いているように聞こえた。視覚で感じるはずのものを、私は間違いなく聴覚で読み取った。神々しいくらい、彼女の笑顔はきれいだ。とつとつと、教えを説く神父さまみたい(見たことはないのだけれど)。
「肉体と精神、をわけて考えるの。あなたは無性よ、そう思えばいい」
「・・・無性?」
「そう、性別なんて所詮個性よ。気にしなくていいの」
そう笑う、やっぱりいたずらっ子のよう。でもそれでもやさしそうな眼が、丸みを帯びた肩が、ふっくらとした胸が、全てが受容の為にあるかのように目に映る。私の思考は、救われたように一瞬だけ引き上がる。全てを、捨て去れるのだ。心の中で、私は全部を捨ててしまえる。お腹のにぶいにぶい痛みは、ただの痛み。広がる血はただ流れているだけ。それは単なる不便であって、決して私を捕えるようなものではないと。そうであれば、どれだけいいのだろう。そう考えられるのなら。でも、わかっている。私は、こわいだけなんだ。おんなになるのがこわいの。なりたくないんじゃなくて、ただ、それだけ。
(でも、たぶんそれは、私がおんなだからこそ)
再び、胸の内に絶望が訪れる。従うようにまた俯いた頭上からは、彼女のやさしくなだめる声が降る。駄目なのだ、それでは。心を解き放つなんて、それだけが頼りだなんて、それじゃあ、
「結局わたしは、おんなでしかないんじゃない。」
そう、逃れるなんて、出来ないのだ。
そう主張する私のからだの真ん中が、またどくりと血を吐き出す。にぶい、にぶい痛み。頭上から降るやさしい声が、段々と萎んでいく。傷つけたのだろうか、彼女を。彼女の言葉で癒されない私に、傷ついたのだろうか。でも私は、心だけを頼りに生きられるほど強くない。だからと言って、生まれ持ったこの運命を割り切ることなんて出来ない。成長することはこわいし、いつか私のからだが他の誰かを宿す日が来るのかと思うと恐ろしさで身が震える。ねぇ、涙が止まらないの。知ってる、わたしは臆病なだけ。誰かをいつか、受け入れる勇気も宿す勇気も少しもないの。
「どうして、泣くの」
涙は止まらなくって、でもやさしかったはずの彼女の声が深く沈んでいることはわかって、でもやはり涙は止まらない。何も返せない。シーツに広がる血の海に、本当の塩水が絶え間なく落ちてゆく。ごめんね、ごめんね、あなたのようにはなれない。変わらずやさしそうで、けれど悲哀を映した瞳が私をそっと覗き込む。やわらかな指が、ぼろぼろと零れる涙をぬぐう。それは、とても繊細で、愛らしい行為だ。女の子らしくて、いつかきっと女らしくもなるそれ。羨ましくて、妬ましくて、結果涙をぬぐうだけで止める要因には成り得ない。少しばかり不満そうに尖ったふっくらとした唇に、悲しげな色を持つ瞳に、必死で手を伸ばそうとしてくれるやさしさに罪悪感を感じる。ごめんね、ごめん。でも、私はかわいくなんてなれない、やさしくなんてなれない。
(結局、わたしはわたしが一番大事なのよ)
たぶん、それだけのこと。
090221
思春期?