自分が欲しかったのはいつも自分の為のもので、他人の為のものであったことは一度もなかった。誰かに縋りたいと、弱くて醜い自分を受け入れて欲しい、そんな思いが自分の中にずっとあったことも知っている。それを目の当たりにする度、どれだけ醜ければ済むのだろうと感じながらも、それをどうにかするなんてことは無理だった。今だってそうだ。失って、そこから自身の力で立ち上がったことなど一度もないのだろう。妬み恨み、自分の一番弱い、曝け出せない部分をまた新しい誰かに手渡し、その誰かの中で自分を生かし、縋った。そればかりだった。そして自分はまた縋ろうとしている、彼女に。それが馬鹿みたいだとわかっていながら、どうすることもできないのは弱いからだ。吐き気がした。こんな何もない自分が生きていて、どうなるんだろう。いつも空虚で、それの埋め合わせを探すことしかしない自分が。それでも死は恐く、そのことがまた煩わしく心に残った。どうしようもないのだ。自分は、こうやって生きていくしかないのだから。こんな風に、誰かや何かを探しながら。それしかない。「なんて馬鹿みたいな生き方だろうな」、小さく吐き出す。まるでそれを言うことでしか、息ができないかのようだ。彼女はそんな自分に「みんな、そうだ」と優しく言った。それが自分を気遣った言葉なのか、彼女が生きてきた中で学んだ事実なのか、どちらかはわからないことだったがそれで心は少し軽くなる。みんなそうならそれでいい、なんてことは絶対にないのだろうが、それでも。もしも彼女もそうだと言うなら、自分はもっともっと安心するだろう。光輝いているものなんかよりも、くすんだ色をしたものの方が好きだった。自分とよく似ているから。その考えもまた、馬鹿な生き方の端くれのように思えて吐き気がした。それから息苦しい。泣き叫ぶ赤ん坊のように不器用そうな動きでどうにか息を吐くと、彼女は心配そうに「大丈夫?」と問い掛けてきた。白い指先で無造作にばらまかれたような自分の髪に触れながら。ずっと口調から声まで男っぽい女だと思っていたが、その仕草は母のように優しげで女性らしかったので、女というのは本質的にそういう手つきをする生き物なのかもしれない。心地がいい、と思った。「大丈夫だ、」そこで名前を呼ぼうとして、そういえばクイーンという明らかに名前でないそれしか自分は知らないことに気が付いた。唾を飲み込んで、呼ぼうとした名前を同時に飲み込む。彼女の名前は、たぶん聞いてもわからないだろう。教えてはくれないだろう。もしかしたら、本人も忘れてしまっているかもしれないし、或いは元々なかったのかもしれない。ロンドンの貧民街で親も知らずに育ったと言っていたし。呼ぶ分には変わらないとは思うが、名前でない名前を今ここで呼ぶことが躊躇われる。子供じみているとは思うが、たぶんこの関係に正当性を求めたいのだろう。別に何かに押し流されたわけでもない、縋りたいわけでもない、と。所詮、墜ちた者同士ということに変わりはないのだが、そこに妙なプライドがあったのかもしれない。たぶん名前を聞かないのも、そのおかしなプライドのせいだ。けれど彼女はごく自然に「クイーンと呼んでいいよ」と自分に言った。あまりに自然だった。自分の頭の中が彼女の瞳にスライドされているかのようだった。

「何故、いきなり」
「言葉を切った。名前を呼ぼうとしたんじゃないの?」


まるでその通りだったので、驚きを通り越して恐ろしさすら感じてしまう。そしてさらに「こんなことまでして、今更、プライドもなにもない。クイーンでいい」。そう言った。何故、わかるのだろうか。不思議でしょうがなかったが、心をそのまま手渡したような一体感は悪いものではなかった。言葉に出来ずに溜め込んでしまうものを、彼女が仕草だけで汲み取ってくれる。ただそれだけのことだ。自分は、彼女の意志に従うように最後に残っていた塵のようなプライドを捨てて、「クイーン、」と呼んだ。本当に、誰かがいらないと言っただけで捨てられてしまうほどの、塵のような子供じみたプライドだったと痛感した。弱い自分にはぴったりだろう。もう、今更なにもいらない。醜くあったって、彼女は怒りはしない。むしろ、醜くあればあるほど優しいのだろうと思う。彼女は少しだけはにかんで「何だ?」と言う。指先が、ばらまいたような髪から首筋に移動し、耳の下あたりで止まった。くすぐったいほどに優しい手つきだ。口調は別として、女性らしいと思った。母と重なったのは、気のせいじゃない。

「名前は、なんだ?」
「忘れてしまった」

彼女はまたはにかむ。「或いは兄が、覚えているかもしれない」。そう言った。

「私はもう、ひとりの人じゃないんだ。名前なんかいらない。でも兄さんがいれば、それでひとりだ。だから、きっと兄が覚えてくれている」

それだけ言って、堪えきれないというより、それが当たり前だというように涙を流した。先ほどまではにかんでいた表情をくしゃくしゃ崩して。引っ掻くように、耳の下の指先を震わせる。痛くは、なかった。それらは酷く人間らしい表情と行為だった。自分の一番弱い、曝け出したくない部分を、他人に手渡す。彼女も、またそうやって誰かの中で自分を生かして、生きてきたのかもしれない。それがなければ、生きられない。そんな弱点を作って。そう考えると安心した。自分の中で疾うに失ってしまったものが、次々と頭の中に蘇ってゆく。母や、あの母と似た女、そしてたった今、引き剥がされた紋章。どれも、自分を捨てた。自分の一番傷つきたくない部分に、躊躇いも無く傷を負わせて。今、たぶん彼女は自分に泣き顔を見せて、そうして一番、曝け出したくない何かを手渡している。自分も、彼女に途方もなく馬鹿らしく醜いものを手渡して、そうして彼女の中で自分を生かそうとしている。あの馬鹿みたいな生き方を繰り返しているのだ、と実感するしかない。引っ掻くように震えていた、指先の動きが止まった。自分はごく自然に腕を伸ばし、引き寄せるようにして彼女を抱き込む。どうせ、墜ちた者同士だ。何を手渡したって、受け入れてくれるだろう。こんな風にいつも埋め合わせてきた。何度すれば気が済むわけでもない、こうでしか、生きることができないのだ。







080216
残留

例の23話、たぶん事後