朝、目が覚める。以前より幾分か早い時間、のろのろとワイシャツに腕を通す。閉め切られたカーテンを開けば、清清しい快晴が広がっている。こうして回りつづける世界を、俺は理不尽だと思う。ぽつりと机に放置された小型テレビは、随分とご無沙汰だ。それはニーナから全てを聞いたその日から、否それよりも少し前から、俺はテレビを見たいと思うことが圧倒的に少なくなっているからだった。寮が一人部屋でよかったとこれほどに思ったことはない、だって隣の奴が聞いているラジオがうっかり耳に入るということも無いから。朝食は、いつもより早起きしてなるべく誰もいない時間に食べるのが日課だ。食堂は酷く閑散としていて、ぽつりぽつりと生徒が点在しているだけ。おばさん達がせっせとサラダを盛り付け、スープを掬うその音だけが聞こえる。ぼんやりとした頭で、食欲に従順にパンにかぶりつく。テレビに映る朝のニュース番組は、淡々と今日の天気について放送していて、その次に、まったくもってくだらない芸能情報が次々とテロップで現れてくる。愛しい人が、朝の憂鬱など吹き飛ばすかのような軽やかな笑みを浮かべてそれらを紹介している。これが、自分がテレビを見る唯一の時間だ。世間の意見から、なるべく遠ざかっていないと心がズタズタに引き裂かれそうになる、そんな自分の逃げ道だ。そして、同時にこれは散っていった友人達への自身の思いだ。サラダとスープを食べ、オレンジも皮ごと全て平らげ、もう一度寮に戻る。不可解な行動であることは理解しているが、なるべく騒がしい教室にいる時間は短くしたいのだ。これも、俺の逃げ道で、同時に友人達への思いの結果なのだろう。
昼休みのチャイムが響くと同時に、俺は購買へ走り、やきソバパンとコロッケパン、あとりんごのデニッシュにカフェオレを加え、それを抱えて生徒会室への階段を登る。今は既に新たな役員が選出されているけれど、昼休みには誰もいないのだ。そうして、無人のそこへ向かおうとする途中にクラスメイトと出会う。何処へ行くのか、と聞かれた。無難に、屋上で食べるということにした。すると、そいつは少し眉を潜めた。
「おまえさぁ、最近付き合い悪くない?」
事実だった。だって、実際に避けているのだから。しかしそんなことを言えるわけもなく、仕方が無いので得意の話術で誤魔化してやる。面倒なので、隣のクラスに好きな女の子ができたことにした。その子が屋上でいつも食べているから、話しかけてみようと思って。そう言うと、そいつは納得したような顔でにやっと笑って俺の肩を叩いた。こいつは、いい奴なのだ。友人の変化に機敏で、こうしてさり気なく事情を聞いてきてくれる。それでも、俺は心の中で何かを見返すようにミレイ会長以外に好きな女なんかいない!と叫ぶ。どこの純情な高校生のセリフだろう、と思わずその陳腐さに項垂れる。そのいい奴は、するりと数人の輪へ戻っていく。悪い、でも俺は、とてもじゃないがそんな気分にはなれないのだ。やはり、今こうして何の苦も無いかのように回りつづける世界を理不尽だし無遠慮だと思う。階段を踏み出していく度に、誰かの映像がフラッシュバックして泣きたくなりながら、生徒会室へと続くその道を駆ける。その途中、見知らぬ下級生の女子に囲まれた赤毛の少女とすれ違った。あの頃とはまるで違う、精悍な顔つきはけれどその容姿によく似合っている。ただ、周囲から浴びせられる耳が痛いほどの賞賛に、どこか冷たく曖昧に、けれどそれを悟られないように受け答える姿は、あの頃と同じく酷く弱々しく少女めいている(こんな風に評するのは自分だけだ。彼女は確かな足取りで、ただ誉められることをよしとしない立派な戦士の顔つきをしているのだろう)。自分は、未だに彼女と真っ向から話せずにいる。彼女が今、何を思っているのか知るのが酷く恐いのだ。きっと、自分よりもっと男らしく、強かな答えがその口から漏れ出るに違いないと思う。けれど自分は、きっとそれに賛同できないだろう。いつかは賛同できるかも知れない、でもそれは受け入れるという形であって、完全な同調ではないのだろうと思う。彼女が、それを察した上で自分と話さないのかどうかはわからない。ただ、ああして少女めいた彼女(俺の勘違いであっても)を見ると、少しばかり安心するのだ。俺だけじゃないと、そう思えてくる。
終業のチャイムが鳴って、教室が俄かに騒がしくなる。ふと振り返ると、意外にもクラスメイトは世界情勢の話しなどではなく、受験だとか就職だとかの経過報告をし合っている。そういえば、もうすぐ卒業の準備として三学年は自由登校になる。あぁやはり、世界は理不尽に回っている。皆お互いに何でもない風に笑って、あいつらのことを卑下している。時折、意思を込めた罵倒ばかりの言葉で卑下している。どうして、一度は慕った人をあんな風に扱き下ろせるのか、自分にはわからない。理解ができない。また泣きたくなって、そうして俺は終業のチャイムが鳴り終えた頃、無意識で生徒会室の前に立っていた。ごく自然と、中へ入り、棚の奥に仕舞ってあるダンボールを取り出す。埃は少しも被っていない。中から、アルバムを取り出し、それを一枚一枚ぼんやりと捲りながら眺める。俺は例えばあいつらが本物の悪逆皇帝とその騎士だったとして、でもそれでも受け入れようと思っていた。それもあいつらの一部で、でも優しいあいつらは確かにいたのだからと。証拠に、写真の中の誰もが酷く楽しげで、優しそうな笑みを浮かべている。とある一面が気に入らないからと、切り捨てるなんて酷い話だろう。たぶん、本気でそう思っていた。どうにかして、俺は友達を捨てたくは無かった。しかし、わかってはいるのだ。これはただの学園内で起きた、些細な日常の亀裂ではないことぐらいは。でもそれでも、俺はたぶんそうとしか見ることは出来ない。詰まるところ、あいつは本当に頭がよくて、ブラコンで、でも時々かっこよくて、でもやっぱり情けなくて運動ができなくて。もうひとりのあいつは、優しくて、お前馬鹿かってくらいに生真面目で優等生、でも時々酷く攻撃的で男らしい、運動神経が抜群な奴。そして、ふたりでとんでもないことをしでかした。それが周囲には理解されていない(あいつらの目論見どおりであっても)、ただのそういう話だろう。そんな中で、あいつらの真意を知る俺はちょっとした板ばさみで苦しんでいる、そんなよくある一コマだ。あいつも友達で、あいつも友達で、皆いい奴なんだよな、なんて呟きながら。これは俺がそうとしか考えられないというだけで、わかってはいる。これは、全世界を巻き込んだとんでもなく規模の大きい話で、決してこんな小さなコミュニティの枠ではくくれなくて。だからこんな写真一枚で、既に真実となった歴史を拭い去ることはできないのだろう。ただの一介の学生の言葉なんかじゃ、何も変わらないのだろう。でも、俺は、どうしても簡単な一言しか出てこない。なぁ、つまりはあいつら大馬鹿者で、友達がいのない奴だったんだ。
「何も言わずになんて、酷い奴らだよ」
そうして、俺の口から渇いた笑いが零れて、日が落ちてゆく。