誰もが寝静まるその時間帯に従った抑えられた声質は、しかし荒げられているので自分の耳にしっかりと届いた。目の前は暗闇、手元にあった敷布団をそっと引き寄せる。何故かベッド下に隠れねばならなくなったこの状況に、寝惚けた頭でさえも理不尽を感じて静かに息を吐いた。静かな攻防は、鳴り止まない。
「なぁ頼むよ枢木」
「だから駄目です」
と、先程から無意味な応酬ばかり。さっさと了承してしまえばいいのに、と思わないでもないがスザクはこういうところに妙に律儀なので無理だろう。対して男の馬鹿さ加減も笑えるほどのものではある。下宿所を抜け出したいから、お前の部屋を時々使わせて欲しいと。ちなみに此処は2階だ。恐らくは彼は3階の住人なのだろうが、とりあえずその執念だけは賞賛できる(ちなみに1階に下宿生の部屋はない。それは正解だと思う)。窓から脱出なんて、70年代のスパイものの映画でしか見たことがなかった。恐らくは顔を知らないであろうその男を心の中で盛大に罵りながら、ふと、寝惚け頭に疑問が浮かぶ。本来ならば真っ先に出てくるはずのものなのに、思考が正常に機能していなかったのだろうか。何故、見知らぬ恐らくは自分ともスザクとも学校の違う男が、こんな夜中に馬鹿げた取引を持ちかけてくるのだろう。2階の住人なんてそれこそ自分もそうだし、他にも何人かいるのだからそいつらに持ちかければいい。スザクは部活があるから明日も早いのだ、余計に睡眠時間を減らしてくれるなと毒づく。決して声は出さない(正直、隠れる必要性は不透明ではあるが気まずいのは確かなので)。その時、ふと静かな攻防が止む。
(帰ったのか?)
しかしドアが閉まる音は聞こえていない。一体何が起こったのか、と僅かに体勢を変えたところで、
「お前、女連れ込んでるんだろ?」
思わず、狭い中で頭をぶつけそうになった。女だとか、連れ込むだとか。恐らくそれが全て自分を指しているのは明白であろう。ただし、自分は女でもないし連れ込まれた訳でもない。ただ何となく、昔のように近くに住むことが出来るのが嬉しかったので、泊まりに来ているだけで他意はない。何より、この部屋は自分の部屋より窓が多く解放感に溢れていて羨ましいのもあるし。
(どこの誰だ、そんな噂を流した奴は・・・)
慌てて否定するスザクの声を聞きながら、噂とは対して和気藹々とした間柄でなくとも容易に広まるということを思い出した。どうせ、夜中に話し声を聞いたとかそんなところだろう。高校生なんてそんなもの、想像の翼だけが有り余っている。頭をぶつけかけた体勢を保ったまま、音を出さないように静かに元の位置へ戻る。わかったのは、男が2階の住人の中でスザクを選んだ理由だ。揺さぶれると、思ったのだろう。そして、同時に思う。隠れて正解だったのかも知れないと(少なくともこれ以降は隠れつづけることが得策だ)。続いていくひそやかな話し声に混じる、悟ったように嘲笑う、いかにも調子に乗った高校生らしい男の声音に呆れを超えた不快感を感じる。さっさとドアを閉めてしまえばいいのに、と溜息を吐いた。やはり、彼は律儀だ。言い争いはまだ続く。
「たくっもういいこの石頭ッ!」
「うわっ」
と、そのよくわからない捨て台詞とスザクの悶絶した声、そしてドアが閉じられる音でで静かな攻防は締めくくられた。静寂にそぐわぬ激しい音量だ。何が起きたのかと慌てて這い出せば、脳天を擦っている彼が蹲っていた。その下には、銀の灰皿。そして煙草が2箱。先程の男なりの餞別だったのだろうか、粋がった高校生らしいといえばらしいけれど、生憎俺は健康を損ねるつもりもないしスザクも部活があるので吸いたくないと言っていた。
「あ、ごめんねルルーシュ。埃くさくなかった?」
少しばかり潤んだ目を向けられて、心配されるのはスザクの方であるのにと呆れる。でも彼はいつだってこうだ。優しいのだと思っているけれど、それが誰に対してでものものなのかとか、学校が違う自分にはよくわからない。少なくとも、子供の頃はこうではなかったと考えながら、彼の自分の頭を擦る手をそっとどける。膝を突いて、静かに彼の体を引き寄せて触ってみると、小さくではあるが瘤が出来ていた。ますます、眉を潜めてしまう。
「まったく・・・痛くないか?」
「ちょっと。灰皿で殴られるとは思わなかった」
へらへらと微笑まれて、何故か悲しくなったし空しくもなる。それを誤魔化すように、まったく、とまた呟きながらもう一度そこに優しい手つきで触れる。何度かそれを繰り返して、ぼんやりとしているとスザクがこちらを見上げてきた。「ルルーシュ?」と問い掛けて来るその声に我に返り、そしてほとんどスザクの頭を抱きかかえるような体勢になっていたことに気が付く。これじゃあ小さなこどもの母親みたいだ。立ち上がり、そして慌てて腰を上げようとしたスザクを、微かに笑いながら静止させた。この状況に陥ったこと、その中で悪いのは、何も言わずとも勝手に寝泊りを始めた自分だろうと。
「冷やすものを持ってくる」
言いながら部屋を出て扉を閉めようとした時、座り込んだままのスザクが垣間見えた。どこか落ち着かないように視線を彷徨わせていて、思わずまた眉をひそめてしまいそうだ。でもそれは単なる疑問であり、しかし相手のことがわからないなどよくあることであったので気に留めようとは思わなかった。具合が悪いとか、悩んでいるとかそういうわけじゃないならいい。暗い廊下を歩きながら、ただ灰皿と煙草の処分の方法に思考を巡らせていた。そして、これからあの噂が妙な方向へ広まらない方法を。