ぷつり、とすらりとした、骨っぽい白い指が一匹の蚊を潰すのを見た。あぁ、と思い私はただ主に遣える者として、ごく自然にティッシュケースを彼に差し出す。彼は薄い唇であいまいに笑い「ロロが刺されたら困るから」と言った。それが本当なのか、私に対する建前なのかはよくわからないが、それでも彼は不思議な笑みを浮かべていた。もしかして、それはたった今潰したそのものに対する言い訳だったのか、それとも見られた私に対する弁解だったのだろうか。らしくない、などと勝手に思いながら、私は彼が優雅に指先を拭うのを見つめている。跡は、あっさりと消えた。残ったのはただのゴミだ。
「片付けておきます」
「あぁありがとう、」
と彼は言ったが、でもいいよ、と気安い風に断った。ただのゴミは、屑篭に入れられて、恐らく明日か明後日には袋にぶち込まれて、私がゴミ置き場に捨てに行く。さみしい最期だと、思った。潰された蚊を思うほど、咲夜子は博愛主義でもないし優しくもないし綺麗でもなかった。痛みなどまるでないし、潰した本人だって何を気にする様子もない。ただ、想像したというだけだ。微動だにせず背筋を伸ばして立ち、彼がこの場所を過ぎ去るのを待とうとした。けれど、彼は屑篭に入れた後、退室するかと思えば驚いたことにまた座った。赤く柔らかい光の差し込む中で、彼の動作は全てにおいて優雅で美しかった。そのまま、呆けたように見つめたままでいると、彼は静かに薄い唇を動かした。視線は窓の外へ向けられていた。
「虫くらい、誰でも殺すだろう」
誰に言ったかは、わからなかった。それが、言い訳なのか、言い聞かせているのか、一体どんな意味を持つのかも。ふと、彼はこちらを向き、また薄くあいまいに笑った。諦念とした自嘲のように見えて、自分より年長者のように感じられる笑みだった。
「俺は、アリを踏まないようには歩かないよ」
私は、彼のアメジストの瞳を見つめ返している。
「私もです、ルルーシュ様」
一瞬だけ、虚を衝かれたような顔をして、そして「そうだろうな」とまた薄く笑う。今度は、もしかしたら少しこちらを揶揄する意図があるのかもしれなかった。
「そして俺は、人に対してもそうだ。他人の尊厳も自由も可能性も、際限なく奪って、踏みつけている」
彼は、悲しそうでもなく寂しそうでもなかった。ただ諦念として、静かに笑っていた。
「かと思えば、俺は俺にとって大事なひとたちの手は、優しくとるようにと心がけている」
言い訳なのだろうか、それともまったく別のものなのか。ただわかるのは、1年前の彼とは、明らかに何かが違っているということだった。悪い意味でも、いい意味でも、彼はどこか大人びたように笑い、何かを得たようにも喪ったようにも見えた。声も、少しばかり低くなった。態度の厳しさは増したが、何故か優しくなったようにも感じられた。
「命は軽いし、安いな。指先ひとつで愛でられ、消えるのだから」
すらりとした白い指が、言いながら目の前に掲げられた。眉が、少し困ったように下げられた。また静かに、あいまいに、けれど口元だけでなく表情全てで彼は笑っていた。命は軽い、とそう言った人の顔とは思えないほど美しくて、差し込むやわらかな光がよく似合っている。掲げられた骨っぽい手を、彼はゆっくりと降ろす(その手は虫を殺した手で、誰かを優しく撫でた手で、そして多くのものを奪ってきたもので、私たちの象徴だ)。何を思って、彼はこの言葉を口にしたのか、それともただの言い訳なのか、謝罪なのか、修羅となる為の合図なのか。例えどれだとしても、私はもう構わないと思った。彼はただ、リーダーだった。間違いようも疑いようもなく、一年前からずっと、私たちの指導者だった。ゆっくりと微笑んで見せれば、彼はまた、笑う。諦念として、優しげで、やわらかで、あいまいだ。「こんなこと、ナナリーには言わないでくれよ、咲夜子」象られた言葉は、ただ会話を切り取るためのものだったのか、彼なりの冗談だったのか。どちらかなど、わからないけれど。
「ご心配には及びません。私がナナリー様とお会いすることは、もうきっとないでしょうから」
080811
再録
決別と忠誠心