ブブブ、と低い唸り声があたりに響いて、驚いて振り返ると放置されていたのはただの携帯電話だった。持ち主のいないそれはただひたすら鳴り続けていて、聞き慣れない自分には異質の物のように見えてしまう。以前その旨を、同い年の寡黙な少女に告げると「慣れてない?」と酷く不思議そうに問われたことを思い出す。うんと頷くとやはり納得できないと言うような顔をされたが、けれど彼女は了解して快くサイレントモードへの切り替え方を教えてくれた。もしかしたら、彼女は名誉ブリタニア人の音声通信機器の携帯が許可されていないことを知らなかったのかもしれないと思う。彼女は軍人とは言えど本国に住む、一般のブリタニア人なのだからそれはさして不自然なことではない。考えれば、日本が占領されたのは8年前でその頃の自分にとっては携帯電話などは大人が使う物という認識であったし(憧れがないではなかったけれど)当然持っているわけでもなかった。その後は携帯電話など買う余裕はなかったし、すぐに名誉ブリタニア人となってしまったのだからバイブ音を初めて聞いたのは1年前、特派の仕事場でのこと。着替え用のロッカールームで、いきなり低い唸り声が響いたものだから驚いて、それの持ち主である研究員には笑われてしまったのだ。どうやら電子機器にべったりのようである彼女からすれば、到底あり得ない感覚なのだろう。それでもやはり、機械がいきなり動き出すというそれが、自分はなかなか受け入れることが出来ない。今も正直、この小刻みに震えるプラスチックの塊が鬱陶しいとしか思えない(自分も今では所有しているのだから、こんなことを言えないことはわかっているのだけれど)。
「・・・誰のだろう」
呟いてはみるが、もちろんこの場には誰もいないのだから答えは聞こえて来ない。けれど、やはり鳴り続けるそれは鬱陶しくてしょうがない。構わないだろう、と安易に考えその物体を手に取り、とりあえず真ん中の大きなボタンを押す(訳がわからなくなったらこうしろと、アーニャに言われたのだ)。するとぷつりと震えは止まり辺りは酷く静かになる、はずだったのだ。しかしバイブ音と取って代ったように鳴り響いたのは、低音だけれど快活でこの塊が発生する音と匹敵する程の鬱陶しさのある声。振り向けば、そいつは自動ドアのセンサーの真下で「あーーーーー!!」と力いっぱいに叫びながら、これもまた力いっぱいに眼を開いて大きな口を開け、こちらを凝視していた。
「五月蝿いよ」
そう言うと彼は叫び声を止めはしたが、それでもセンサー真下で立ち往生していた。長身故のその長い腕が健気にも閉まろうとする板一枚を難なく阻止しており、虚しい音を立てながら閉まりかけては開きを繰り返している。これでは壊れてしまう、と咄嗟に思い自分は先ほどまで騒がしかった物体を手にしながら、立ち往生する彼に近付き「とりあえず其処をどいてください」と告げる。彼はこの世にはないものを眼にしたような顔をしながらも、言葉には従った。すると自動ドアは無意味な拘束から開放され、本来の如く滑るように戸を立てる。さて、問題は次なのだ。そう思いながら振り向けば、先程よりかは幾分か益しな顔した彼が、それでも心底驚いたという風に「お前、覗きの趣味があったのか!」と声高らかに、そして何故か嬉しそうに言った。その考えに至る原因が自分にはまるでわからず、瞬間、瞠目する。これは自分が鈍いからでは決してない。
「だって、俺の携帯だよそれ」
そう言いながら彼の角張った指が示したのは、自分の手の中で大人しく収まっている機械。あぁ、そういえば持ったままだったと思いながら、彼の何故か妙に嬉しそうに述べた事実を噛み砕く。噛み砕いて、あぁじゃあ返さなければと思い、それを差し出せばそいつは酷く拍子抜けした顔をしてそれを受け取った。少しの間、その大人しくなった物体を呆然と見つめながら、こちらに視線を戻す。
「なぁ、なんかさ、少し慌てるとかそういう反応ないのお前」
何を言うかこの男は、と言いたくなるところぐっと我慢し「何で?」と問えば「だってアーニャだったらタコ殴りだぜ?」とまたもや訳のわからないことを言った。何の話だ、タコ殴りされるようなことをした覚えはないというのに。本当に訳のわからない押し問答だと半ば呆れる。あまりの呆れに、表情にもそれは惜しみ気なく出ているはずなのにそいつは未だに「まぁ俺はあんまり気にしないからいいけどさー」だとかよくわからないことを呟き続けている。とりあえずわかったのは、彼は馬頭らしく本気で驚いていて、そして少しばかり嬉しがっているという事だ。だが、今までのこの室内で起きた事を考えたとして、そんな結果を導く要因は何所にもなかったように思えるのだが、と考えたところで、あぁとふとひとつだけ思いついたことがあった。けれど、これでは今までの訳のわからない呟きの説明にはならず、ただ単に要因と結果として事実関係が繋がるだけなのだが。けれど普段からわけのわからない言動の多い彼ならば今までの呟きに特に意味がなかったとも取れる気がするのだ。そして未だに普段から意味の分からないそいつは「えーでも意外だなぁホント」などと呟いている。叫び声を上げられるよりもよっぽど鬱陶しいような気がする。ハァとひとつ溜息を吐いてから、言ってやった。
「誰か、大事な人からメールでも来たの?」
そして、その大事な人はきっと普段はメールを寄越したりしない人なのだろう、というのが自身のこのおかしな言動に対する想定だった。そこで自分は肯定の言葉が来ることを予測していたが、何故か今まで訳のわからないことを呟いていたそいつは、「え、ただの友達だけど?」と半分程が文字で埋まった画面をこちらに見せた。一瞬、呆けた。ただの友達からのメールで何故彼はこんなにも嬉しそうにしているのか。普段、彼はあの鬱陶しいバイブ音が鳴っても酷く面倒そうにして、こちらに「なー誰からか見てくんねぇー?」と申し付けたりしていたのだ。たかがメールが来ただけで、喜ぶ奴ではないのは少なからず確かだと言うのに。そいつは自分の予測などそ知らぬ風というように「つーかいきなりどうしたんだよ」と訳がわからないというように呆れ混じりの笑いを漏らす。訳がわからないのはこっちだと、そう叫びたい気分になるのは仕方がないのだ。







080509
再録

ふたりとも天然