目の前で項垂れるその人物は、大分参っているように見えた。いや、この状況下で参らない人間などいないのかも知れないが、そうだとしてもかなりの重症であるように見受けられたのだ。天井の低い、重く狭苦しい暗い部屋。散らばった、錠剤。それがなんであるか、僕は知らないがリフレインでなく睡眠薬であることを祈ることしか出来ない。たまたま相部屋となったその男はどうやらそれを常に持ち歩いているようで、僕はこの部屋へ来てから何度も目にする光景にそんな場違いなことを思った。けれど目の前の男はそんな僕の祈りも露知らず、虚ろな目をして自身の薄っぺらい寝袋に包まり、何度も同じ事を問うて来る。
「なぁ、明日は何所だ?」
「・・・サイタマゲットーです、すぐ其処の。朝の5時から、」
「ああそうだよな。うん、そうだ思い出した」
そう言うと、男は今度は指折り何かを数え始める。何を数えているのかは想像に難くない。たぶん、日本人を殺した数だ。虚ろな目、虚ろな声でひたすらに数えて、そうして数え終わるとまた先程と同じ問いをこちらに向ける。正直、自分は疲れていたけれど、この男をどうしても放って眠ることが出来ず、こうして一向に成り立つ気配のない会話に付き合っているのだ。そしてわかるのはこの会話に何の意味もないということだけ。別に、この男は明日どこに赴くべきなのかは知っているのだろう。たぶん僕が答えなくても、構わずに今と同じ行動を続けるのだろう。ただ、呟いているだけだ。それでもこの男を放っておかずにいるのは同じ境遇としてのよしみもあり、そしてこの悲しい姿に対する哀憫もあった。そんな心持でひたすら指を折っていく男を見ていると、そいつは突如として虚ろだった目にほんの少しばかりの生気を戻してこちらを見る。この男と相部屋になって数日経つが、こうして目を見たのは初めてで、僕はかなり驚いてしまった。もしかしなくとも、この男が自分を視界に入れたのはきっと数日の中で今が初めに違いない。
「・・どうしました?」
静かに、問う。男は、数えることをやめたようで、ささくれだった太い手をゆっくりと膝に下ろすと寝袋を掻き集めるように掴む。今度は僕のことを完全に視界に入れて、口を開いた。
「なぁ、クルルギ一等兵」
「はい」
妙に凛々しい返答を返すが、男はそのことに対しては何も触れず、ただ赤ん坊が気に入った毛布をだだこねて離さないように、必死で寝袋に皺を刻んでいる。その男は自身より大分年上で、恐らく中年ほどなのだったため、身形としてはかなり不釣合いだ。そして、何かに怯える少女のように、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、思い出せないんだよ、昔のこと」
呟くようなそれを聞いて、やはりこの男は正気に戻ったわけではないのかもと考えるが、次に続いた「お前はどうだ?」という問いにそれは打ち消された。これは、会話だ。そう認識して、瞬間、考えたのは昔とはいつの頃だろうということだ。普通に思うならば、それは日本が平和な国でいられた頃のことなのだろう。きっとこの男には奥さんがいて、或いは赤ん坊もいて、普通に会社で働いて、休みの日には出かけて。そんな風に毎日を過ごしていたであろう頃のこと。けれど、僕にとっての昔と言うのは、単純に平和だった頃では納められなかったから。あの家庭教師がわりだった女性のことか、それとも母さんが生きていた頃か。或いは、父さんを殺す前か、それとも、あの兄妹と過ごした日々か。ただ、わかるのはどれを思い出すにしても、今の僕にとっては不遜だということ。死んでしまった人々に今の僕を保つための幻想を求めることは失礼で、生きている人々にそれを求めることには背徳心が付き纏う。そして、自分が殺した父に何かを求めるなど、それこそ最も僕の中で厭われるものだ。僕は、今の苦しさや忙しなさ、上手く眠ることすら難しいこの状況で、なるべくそれらを思い出さないようにしていた。あるいは、忘れていた。だけれど、それはあくまでも進もうと足掻いている時だ。この国を内側から変えるのだという決意を思い出し、そしてその為には今は前に進まなければと思い日本人を殺し、それに絶望してけれどまた決意を思い出し覚悟する。そんな努力なのか徒労なのかもわからない繰り返しをしている時の話だ。実を言えば、振り返ればかなり鮮明にあの日々を思い出すことが可能なのだろう。そう思う。ただ、僕がその振り返るという行為を拒否しているだけで。
ともすれば、僕は恵まれているのかも知れないとそう思った。少なくとも、昔を思い出せないこの男に比べれば。
「なぁ、思い出せるか?お前は、昔のこと」
目に少しばかり宿る生気を見つめながら、僕は、何故か正直に答えなければという使命感に追われるように口を紡ぐ。
「・・・思い出そうと、思えば」
静かにそう言うと男は目を伏せて、「そうか」と言った。もしかしたら、何故思い出さないんだと問いたかったのかもしれないし、あるいは僕の答えに絶望したのかも知れないし、そもそも正気でなかったのだとしたら意味のない質問だったのかもしれない。その男は返答から数秒たち、その寝袋を掻き集める手を少しだけ緩めると、潜り込んで眠ってしまった。たぶんそれはフリだったのだろうから、僕はなんとなく居心地の悪さを感じて、同じように眠ってしまおうと考えた。足元にあった寝袋を、丁寧に広げて潜り込む。ふと横を見ると、少しだけ視線の下がった床の上に錠剤が転がっていた。思えば、過去を思い出せないと嘆いているのだから、恐らくこれはリフレインではなく、ただの睡眠薬なのだろう。たぶん、強烈な部類のものではあるのだろうけれど。僕はそれをひとつだけ手に取って、静かに口内へ押し込み、噛み砕く。天井を見つめながら、考えたのは隣にいる男はいつもどういう気持ちでこれを噛み砕いているのだろうかということだった。幸せだった頃の夢を見ようと、必死なのだろうか。けれど僕は、幸せだったころ―――例えば、あの兄妹と過ごした日々を夢で見たならば。きっとあたたかさで胸が痛くなって、死ぬほどその頃に帰りたくてなって、そしてそれ以上に自分を呪いたくて仕方なくなるのだろう。







080524
再録