扉を開けて中に踏み込んだ瞬間、肌寒さから、一気に包み込まれるような温かさに体感温度が転じる。
「おーい、ルルーシュ!生!」
カウンターから叫んだのは玉城だった。後ろにひょっこりと付いてきているスザクの存在に何も言わないあたり、もう大分酔っ払っているに違いない。タクシーを呼び出さなければならないのは面倒なのに。それでも客であるのには違いないので、冷蔵庫からよく冷えた瓶を選び彼のまん前に大きく音を立てて置いてやった。せめて金を垂れ流しにしていけ、そうすればナナリーのおでんで世界支配の構造はさらに発展を見せるだろう。
「じゃあ、僕・・・」
いかにも忙しそうな様子に居心地悪さを感じるのかスザクは身を縮め、もう湯気は立っていない皿を持ったまま奥へ行こうとする。先程の尊大なこどもっぽさは露と消え去っていた。
「わかってるだろうけど、俺の部屋だぞ。食べたいものは其処に書いておいてくれ、すぐに持っていくから」
「ありがとうルル、」
生ビールもう1本!という野太い声に自分の名前の語尾はあっという間に掻き消された。返事をする間もなくまた瓶を取り出し、声のした方を見るとへらへらと笑いながら、一人で席に座る誰かが手を振っている。そういえばこいつも一度、タクシーを頼むところまで事態が及んだ奴だ。頼むからもう二度と一人では飲みに来るな、面倒だから、と念じたのだが世の中は甘くは無い。嫌な予感を肌で感じながら、それでも大事な客であるので、笑顔で既に顔の赤らんでいる中年男によく冷えた瓶を差し出した。そして背を向けようとしたところで、咄嗟に手首を掴まれる。こういうのも割合、よくあることだ。むしろこの男はまだ丈夫な方で、時々本気でセクハラ紛いのことをしてくる奴がいるから腹が立つ。つくづく、酔っ払いは寂しがり屋や構いたがり屋が多いのだ。
「今日はナナちゃんは〜?」
完全に酔っ払い始めている、と判断し同時にナナリーがいなくてよかったと心底思った。ナナリーの手首に触ったりなんてしたら、即刻店から永久追放にする。ぐいと引っ張られて、不安定な足取りで男の横に立つ。客なので、特に怒って振り払うこともなければ文句を言うこともない。酔っ払いは怖いよりも先に面倒だから、適当に付き合っていれば勝手に一人で飲んでいる。これも仕事だ、ナナリーには絶対させないけれど。
「今日はいませんよ。すみません」
心は篭っていないけれど、便宜上こう言うしかないだろう、と思ったところで若干潤んだ瞳でこちらを見上げてきた。そしてさらに強い力で腕を引かれ、バランスを崩し腰を落とすと、肩に腕を回された。先程より近づいた黒目が幼児のようにてらてらと輝いていて、けれど外見はどこにでもいる普通のおじさんなのでさすがにかわいいとは思えない。
「う〜ん、あんまり似てないねぇ。でも綺麗だなぁ」
「ありがとうございます」
笑顔で礼を告げると、また後ろで玉城が五月蝿く何かを叫んだ。「じゃあ失礼します」と告げた時、男は手を解き目尻を下げてへらへらと笑う。そして会釈をして立ち上がった自分の背中をとんと押す。一瞬よろめいて、立ち直った時にもう目の前の酒にしか目が向いていない。やはり酔っ払いは面倒だ、自分も酔うとこんなに扱いが面倒くさかったりするだろうか。見えないように溜息を吐きながら、カウンターへ戻るとスザクが玉城のためにがんもをよそっていた。
「おい、早く上に行け、邪魔だ」
「いいよ、手伝うから」
「いつもやってるんだから一人で充分だ」
お玉を奪い取りながら、がんもが踊っている皿を大きな音を立てて玉城の前に置いてやった。振り返れば、スザクは自分の半歩後ろに頑なに立っている。どういう風の吹き回しだろう。特に今回のような特別な用事が無い限り、ナナリーには10時には上がってもらっているので、今ごろの時間帯はいつも一人だ。元々客も5、6人が限界、常連も多く彼らは自分で勝手によそってくれたりするので忙しいけれど捌けないというほどではなく、それは彼も知っていることだ。だというのに妙に真剣味のある目で、てこでも動かないと訴えているそいつを無理やり奥へ押し退ける。こいつも酔っ払っていたのか、と言うほど異様な目で未練がましそうに店内を見つめながら、奥の階段を登っていく。面倒な奴が多いことだ。
「ルルーシュー、わたしにもビール!」
今度はカレンか、と微かに溜息をつきながら背後の冷蔵庫を振り返れば、マグネットで走り書きのメモが貼られている。がんも、たまご、大根、牛スジ、はんぺん、じゃがいも、とおっさん臭いのだかこどもっぽいのだかよくわからないメニューが並んでいた。あぁスザクに書いておけと言っておいた、ということを思い出し、瓶をこれもまた顔を赤らめ玉城と喧嘩腰に話している彼女の前に置く。それが済むと、皿を取り出しメニュー通りのものをよそう。
「少しいなくなるぞ」
「りょーかい」
ふらふらとした手つきで敬礼のポーズをカレンがして見せた。彼女がそれを下ろすのを見届けて、皿を持って上の階へ登る。引き戸を引き、現れた簡素な畳の部屋の中央では先程と同じくらいみじめそうにしたスザクが胡坐をかいて、もう湯気の立たないおでんをつついていた。
「冷えてるだろう」
「でもおいしいよ、さすがナナリーだね」
実際にそうであるし、彼も無理をしている風にも見えなかったので特に気には留めなかった。小さなローテーブルの上に湯気を立てるおでん達を置き、「早く食べろよ」と言うと彼は振り返って笑顔で礼を述べる。酔っ払っている様子は無い。ほっとまた息を吐いて、立ち上がり部屋を出て引き戸に手をかける。
「あ、」
「どうしたのルルーシュ」
温かい方にも手をつけ始めたスザクが、顔を上げる。ちくわは今度こそ彼の胃に入ろうと、箸に挟まれ小刻みに震えている。それを眺めながら、自分は咄嗟に記憶の糸を解いた。
「俺達、さっき何で喧嘩していたんだ?」
あんな支離滅裂な喧嘩、前半の方なんて記憶力の良い自分ですら曖昧すぎてよく思い出せない。何か、スザクの過剰な一言だったような気もするし、自分の苛烈な罵倒のせいだったような気もする。とにかく、思い出せない。覚えているのは、スザクがバイトを雇った方がいいと言ったこと。なるべく力仕事もこなせるような奴を、と。けれどこれには、自分は理路整然とした答えを返すことが出来るのだから、喧嘩になることなどないはずなのに。思考を加速させる自分をよそに、そこで一度時間が止まったかのように彼は顔を強張らせている。そして眉を下げ、溜息を吐くように呟いた。
「このお店、ナナリーがいて本当に良かったよ」
それはそうだ!と叫びたいような、言外にお前一人じゃだめだというその表現を批判したいような気分になりながらも、疲れた彼の表情を見ると思わずそれらを飲み込んでしまう。何だか、哀愁が漂っているのだ。表情にも、言葉にも、湯気を立てるおでんをつつくその仕草にだって。