目覚めた部屋が一体どこだったのかはわからなかったが、どうやらダイニングと思われる場所に下りると、ソファに腰掛けるよう促され、そしてルルーシュは尊大な仕草で向かい側に座った。その姿は、確実に生前の彼を思い起こさせるものだ。
「ここでは、人は全てを忘れていく」
定位置だと言わんばかりに彼の隣にほとんど寝そべるように座っているC.C.が、どこか胡乱気な眼をした。自分は、ただ彼の言葉に息を呑んだ。
「わす、れる?」
「正確に言うなら、思い出せなくなる…かな」
それは同じことではないのか、という問いは出掛かって消えたが、代わりに傍らで「ほとんど同じだろう、それは」と揶揄するような声がした。ルルーシュはそちらへ眼をやりながら、軽く肩をすくめて困ったように眉を下げる。
「そう言うな」
そう言いながら、彼は向き直る。自分の目をしっかりと捉え、一拍おいて、少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべながら両の手の親指と人差し指で円を作り、差し出すようにそれをこちらに見せる。
「これを集合無意識だと考えてくれ」
いきなり、聴き慣れない言葉が耳に入り込んで来てたじろいだ。ルルーシュは承知したように軽く笑い、そして次の瞬間にはそれが嘘であったかのように真剣な顔をした。
「人は、元々ひとつだったと考えよう。それが集合無意識だ。生きている人間は、ここから出て現実を生きる」
まるで、おかしな宗教団体の勧誘を受けているかのような、目の前の人間はまるで信頼に置けない人物であるような、そんな不安が星刻の胸を過ぎる。だが、彼はまるで気にした風もなく続けていく。
「俺たちは死んだ人間だから、此処へ戻らなくちゃいけない。だが、いきなり肉体を失った虚しさ、家族や友人と別れる悲しみ…そんなもので溢れた魂が毎日ひっきりなしに還ってきたのでは集合無意識は偏りを生じて崩壊してしまう」
円を形作ったままの指を解き、真剣な色を帯びていた眼を少しだけ崩した。
「つまり俺たちが今居る世界は本当の死までの猶予期間のようなものだ。ここで人は悪感情から、少しずつ集合無意識の下へ戻っていく。最期は、肉体を失うことや大切な人々と別れることを瑣末なことと思えるほどの寛容さを手にして、完全に元いた場所へ還っていくんだ」
それは本当に寛容なのだろうか、という疑問が浮かんだがやはり口に出すことはしなかった。ルルーシュは喋り終えたことで満足したのか、何かを促すようにこちらを見てくる。その眼は自分よりずっと年長者のもののようで、そこで彼が促しているのは先ほど自分が飲み込んだ類の疑問だったのだということに気がついた。そしてそんなやりとりを全て了解していたかのように、寝そべる少女が声を発した。
「こういう考え方も出来る…というだけだ。単に嫌なことから忘れて、消える。それだけでも説明としては充分なんだがな」
言いながらちらりと隣で姿勢を正す男に視線を投げかけ、呆れたような溜息を吐いた。その表情から決して何か否定的な感情は見当たらず、その時ふと、彼の説明全てが恐らくは自分の混乱や恐怖感を和らげる為のものだったのだと気付いてしまった。そう、だからこの女は、こんな顔を彼に向けるのか。納得と同時に、込上げたのはいい迷惑だ、とかそういう類の嫌悪感だ。何故か、この男に気を遣われたくなかった。
「その女の言うことにも一理ある」
「一理どころじゃない、こっちが正解だろう」
「正解なんてないさ、むしろ案外俺の話が大正解かも知れないだろう」
ゼロであったことを思い出させるような不適な笑みを浮かべ、女は付き合いきれない、というように息を吐いた押し黙った。
「質問はあるか?」
さっきもはっきりそう言えばよかったのだと、多少理不尽なことを考えながら頷く。
「悪感情を…忘れていくと言ったな。それはどんな風に?」
「どんな風?」
「何か具体的な例を出してくれれば、それでいい」
彼は顎に手を当て、少しの間眉根を寄せて考える仕草を見せて、やがて口を開いた。
「例えば、俺の友人にシャーリーという子がいる。彼女は俺の弟…恐らくお前も知っているだろうが、ロロだ。あの子にシャーリーは殺された。本人もそのことはわかっていたはずだ。だが、今は仲良く話をしているよ。たぶん、そういうことがあったという事実を忘れてしまうんだろうな」
随分と壮絶な内容をさらりと言い切った彼に違和感を覚えながらも、その内容に対する質問を返す。
「事実も、忘れるのか?」
「わからない。もしかしたら覚えているけれど、ロロが自分を殺したということに対して何の恨みも、悲しみも湧かなくなっているという可能性もある」
自分が今いる世界の話をしているはずなのに、ルルーシュの口ぶりがまるただの研究者であるかのような風なのを不思議に思いながら、星刻は耳を傾けた。
「あと、ロロは恐らく生前、シャーリーのことを好ましくは思っていなかっただろう…だが、ここへ来てそういう素振りは見せたことがない。恐らく、誰かを嫌ったりする感情もなくす。この世界では、苦手だったりとかはあるだろうが、誰かを嫌いになることはまずない。この世界で初めて会った者同士なら尚更だ」
話を聞いていくうちに、次第に恐怖が込み上げていくのを感じた。憎んだことも嫌ったことも忘れてしまうのは、それが自身の努力により為されるものならば意味があるだろうが、ただ知らぬ間にそうやって自分の中の感情を整理されていくのだと思うと酷く恐ろしくなった。少なくとも、先ほどのルルーシュの説に縋りたくなってしまう程度には。そういう自分の内心を、悟っているのかルルーシュは少しだけ眼を細めてこちらを見つめ、C.C.は様子を伺うように横目でこちらを見てきた。
「だが、全てを忘れるといっても、誰が他人で誰が知り合いだったとか、そういうことは覚えている。例えばお前に酷く大切な人間がいたなら、その人間が大切だったということは忘れない。多少形骸化した感情にはなるんだろうが…ようは、生前嫌いだった人間に対してよりも、生前大事に思っていた人間に対しての方が、こちらの世界でもより強い好意を抱くことになる。具体的な思い出は忘れてしまうかも知れないが」
どこか実感を込めるように言われたそれに、星刻は自分が少しだけ安心感を抱いていることに気がついた。そのことが、どこか情けないと思った。
「…で、わかったか?星刻」
「あぁ」
わざとだったのか、それとも普段から自分はこうだったのかも知れないが、酷く硬い声で相槌を打った。その時の彼の反応はただ頷くだけというとても簡素なものだったが、表情の中にはどこか諦観じみた寂しさが見て取れる。そしてその時、ふと疑問が湧いた。思い出せば、彼らの今までの表情やその声音は、本当に悪感情を忘れた人間のものだっただろうか?あの第三者であるかのような、口ぶりも?
「ひとつ、いいだろうか」
「どうした?」
立ち上がりかけたルルーシュは、再び深く腰掛ける。その仕草さえどこか寂しげに思えるのは、単なる疑い深さでしかないとは思うが、疑念を消すことは出来なかった。
「君たちは、本当に忘れているのか?」
ふと、この場が水を打ったように静けさに満ちたのを感じる。それがどれほどの間だったかはわからなかったが、初めに口を開いたのはC.C.だった。
「私はコードの継承者だから、ここに来れるだけだ。死んでいるわけじゃない」
まるでそれまでの静けさなどなかったかのように、やる気のなさそうにそう答える。意味の分からない単語に多少混乱を覚えながら、さらなる説明を促すように彼女を見る。だがC.C.はまるで嫌がる子ども無理やり人前に押し出そうとする母親のような顔をしながらルルーシュに視線をやっていて、自分の思惑はまるきり無視されていた。ルルーシュはひとつ溜息を吐き、そして自分に眼を合わせようとしているのがわかったので、大人しくそちらを向く。
「さっきは、ここにいる人間は全てを忘れていくと言った。だが、例外はある」
すると何かを決意するように息を呑んだあと、「この家だ」と静かに言葉を吐いた。
「家?」
「そうだ、この家では、人は忘れない」
少し縋りたくなるような感情が自分の中に芽生えたのを無視しながら、出来るだけ平静を装って問い返す。
「つまり、ここでは全てを思い出せるのか?」
ルルーシュは、それがまるで予想していた質問であるかのように淡々と言葉を続けた。
「思い出す、わけじゃない。思い出せるようになるだけだ。忘れてしまったことは、全て集合無意識の中にあるから、取り戻すことはない。ただ今覚えていることを忘れることは、この家ではあり得ない」
言い切ると、また少しを息を呑んだ。今度も、何かを決意しているようだった。
「俺は、この家から出られないんだ。だからこの世界に来た時のまま、全部を覚えている」
今度こそ、本当に、目の前にいる人間が、一抹の寂しさを感じていることを悟った。そして聞きたいことがあるのに、それ以上口を開くことが難しくなってしまった。
「恐らく星刻…お前は、そうはならないと思う。俺とC.C.以外の人間は、強制的に夜になると外へ出なければならなくなるんだ」
自分の疑問など察していた、というようにさらりとそう返され、芽生えた希望のようなものが萎えていくのを感じずにはいられなかった。考えていたのは、中華連邦のことだ。天子様はまだ幼かった。彼女が作り上げていくものを、この眼で見ることが叶わなかった星刻にとっては、自身の死は未練に満ちた死だったのだ。だがその未練さえ感じられなくなるというのは、絶望にも等しい何かがあった。
「そう落胆するな」
女の声だった。まるで見透かしていたかのようにそう言われて、多少苛立ちを感じながらそちらを軽く睨む。
「そうだ、忘れたことさえ忘れるんだ。悲しくなんかないさ」
今度の声は、ルルーシュだった。それが嫌なのだと、子どものように主張したい気持ちを抑えながら、彼を睨んだ。忘れないでいられる彼にはわからない気持ちだろうという、そういう非難を込めていた。だが、同時に彼は彼なりの寂しさがあることは察してしまっていたから、どうにもならない思いの方が強くなってしまっている。行き場のない思いを、ただ自身の手を強く握りこむことで抑えるしかない。
「もし忘れたくないと願うなら、明日から毎日にここに来て、いられるだけここにいていい」
低く、落ち着いた声が振ってくる。彼は、既に立ち上がっていて、自分はそれを見上げた。
「…いいのか?」
「構わないさ」
何でもない風に言って、彼は一仕事終えたかのように軽く肩を回した。そして「お茶を一杯淹れるから、そうしたら今日のところは時間までは好きに家を見て回ったりだとか、したらいい」と事も無げに言う。ルルーシュがお茶を淹れる、とそう言ったことに自分が多少なりとも衝撃を感じているのだと気付いたのは、彼がカウンター式のキッチンへと姿を消した後だった。
「おい、ルルーシュ」
責めるような呼びかけが、未だにソファに寝そべる少女から発される。自分はそれが何を意味しているのかさっぱりだったが、カウンター式のテーブルの向こう側から、首だけをこちらに振り向かせたルルーシュが意を得たように「あぁ悪い」と言った。
「主治医の命令だ。今日一日は安静にしていろ、星刻」
「やっぱりノリノリじゃないか」と呟きながら満足そうに微笑んだC.C.がナース服を着ていることと、何故かキッチンでお茶を用意する彼が白衣を着ていることに改めて気がつくと同時に、自分は今、寂しさに襲われた人間の先にあるものを垣間見てしまったのだと悟った。