嫌な夢を見た。内容は、よく覚えていない。ただ目が覚めた時、体中に汗が張り付いていたので嫌な夢だったのだろうと判断しただけだ。もしかしたら単に熱かっただけなのかもしれないが、でも既にそんな季節は過ぎ去っていた。隣のベットでまるで倦怠期を過ぎた恋人同士のようにゆったりと眠るふたりも、暑がる様子もなく布団にくるまっていた。汗ばんだ手で、水道の蛇口を捻る。コップを出すのが面倒だったので、そのまま流れ出す水に食らいついて、ごくりと咽を鳴らした。顔に冷たい水がかかって気持ちがよくて、だからしばらくそうしている。するとぎしりと、ドアの軋む音が聞こえてきた。軽い足音が響いて、気配は背後に立つ。なんとなくだが、誰だかはわかる。背中から伸びた手は、確かに細いが丸みはなかった。ほら、当たった。ルルーシュだ。そんなことを思いながら眺めていると、その手は蛇口を握ったままの僕の手に重ねられ、そのまま捻られる。別にそれに対抗することは訳もない話しだったが、それをする気は湧かずに、丸みの無い手に為すがままにされた。流れ出る水が止まる。僕は咥内に溜まっていた水分を、ごくりと胃に落として、そして振り向く。思ったとおりの顔が、そこにはある。
「生水は飲むなと言っただろう」
さっき、少なくとも僕が部屋を出た時までは寝ていたはずの彼は不服そうな顔をしながら、そう言った。別に忘れているわけじゃない、でも、自分はこの濁った生水を飲んだところで腹を壊すほど繊細ではないし、いつからかの癖が抜けないせいもある。それを、言えばよかったのかもしれない。けれど彼は不服そうな顔をしたまますぐに僕の目の前から消えてしまったからタイミングを失う。冷蔵庫を緩やかな仕草で開けて、中からミネラルウォーターを取り出している。小さな格子窓から見える外はまだ暗く、漆黒の艶をもつ髪が溶け込みそうだと思った。涼しげな横顔には、汗一つ無い。僕はそれに何故か苛立ちを覚える。彼は変わらない緩慢な仕草で、グラスにミネラルウォーターを注ぐ。数はふたつ。僕は、もう生水をたらふく飲んだからいらないというのに。
「せめて、グラスくらい使えよ」
そう言いながら、僕に少しばかり重みのあるそれを差し出す。受け取って、同じように胃に落としてもその違いが僕にはわからないのは承知の上なのだと、彼は知っているのだろう。でも差し出している。彼はいつだって、細かいところに拘るのだ。僕はそれを、一気に飲み干した。咽はまだ、酷く渇いていたらしかった。彼は、そんな風には見えないけれど。
「随分と汗だくじゃないか、そんな季節でもないのに」
涼しげな顔でちょっとずつミネラルウォーターを口に含んでいる。なんとなく、それが嫌味のように思えてしたかたがない。摂取している様は、僕とはまるで違っていた。
「夢見が悪かったんだ」
吐き捨てるようにそう言ってやれば、彼は暗闇の中、か細い月明かりの下で口元を歪ませる。「どんな夢だったんだ?」と、静かに問うてくる。好奇心がまるで感じられない声音だったので、僕は少し驚いてしまう。しかし表情にはからかうようなそれがある。僕はよくわからないまま、「覚えてないよ」とありのままを言った。彼は、そこでミネラルウォーターにまた一口飲み下す。「そうか」と、感情の篭らない声が静寂に落ちる。
「君こそ、こんな夜中にどうしたの?」
すると、彼は虚を付かれたような顔して、笑う。「別に、」と言いながら彼はまたコップに口をつけようとして、それをやめた。きっと僕が少しばかり険しい目をしたことに気付いたのだと思う。僕は汗だくで、息が切れそうだけれど君はまるで何でもない風に此処にいる。そのことがたまらなく悔しいのだと、僕は寄せた眉に思いを込めた。彼はそれに苦笑して、表情を歪ませる。酷く、息苦しそうに。彼は喋り難いのだとでも言うように、いつもより掠れた声で話し出す。
「蝉の声が五月蝿かったんだ」
僕は瞬きを繰り返す。蝉など、もう鳴いてはいないと考える。
「それで目を覚ましたら、とても静かだった。だから、夢を見ていたんだろうな」
掠れた声の呟きは、闇の中に溶けるように消えた。もう、とっくの昔に夏は終わっている。今、蝉は鳴いてなどいない。ただ記憶の中の夏が、忘れらない激動として色彩豊かで鮮烈な何かを僕らの脳裏に残しているのみ。彼はまた少し苦しそうに笑いながら、ゆらゆらとコップの中身を揺らしている。「夏は、もう終わったよ」そう言えば、彼は静かに頷いた。その時、彼の顔つきが変わる。歪みはどこにもなくて、とても美しく透き通った姿へと。涼しげな顔に差した熱。あと、少しだ。そんな言葉が僕の中を過ぎる。あと少しで、僕らは突き抜けるように前に進むばかりの日々に幕を上げるのだ。彼はグラスでゆれる中身を飲み干す、その様子は先ほどの澄ましたそれとはまるで違う、ただ思いのままに咽に冷たい液体を落としている。僕は、少し満足する。外は暗いまま。肌に触れる温度は、確かに冷え込んでいる。汗が張り付いた背中に悪寒が走る。あたり前だ、夏はもう終わった。
「お前のあの夏は、俺がもらうよ」
熱の篭った声が狭いこの場所に響く。「あぁ」と強く頷けば、彼はとても満足そうだった。そうだ、もう夏は終わった。ただ鮮烈に、色褪せない記憶だけが僕らには存在している。僕は数日後、この内にある全てのものを君に捧げるために、歩みを始める。最愛の人の敵で、始めての友達で、憎しみの象徴である君に。そしてきっと君は、その全てを背負った身を世界に捧げにいくのだろう。果てしなく憎んで、壊れるほど愛した世界へ。そんな君の引き金を引くのは、僕の手だ。他の誰でもない、僕の。
「いくらでもあげるよ、ルルーシュ」
君が与え続けるように、それで渇いた咽を潤せるならば。







hazy

081015
最終回派生「残暑」より残留