この日々の開幕は、酷く単調に訪れた。まず自分は離宮の地下に追いやられ、彼は其処を時折訪れる。けれど飽き足らなくなった自分は、その日々の開幕の一週間後、彼にぽつりとこんなとことを呟いた。「ここを寝室にしたら」と。すると、生活感のなかったこの部屋には、なんだかあたたかいものが溢れるようになった。ついでに魔女もついてきた。初めて彼女がこの部屋に入って来た時、その第一声は覚えていないのだが、自分に向けた視線が嫌に馬鹿にするかのような清清しい笑顔だったことを覚えている。つまりは嘲笑われていた。そして、当たり前のように設置されたソファに寝そべって、ルルーシュが帰ってくればパソコンに向かう彼に纏わりついた。窓のない、閉塞的な空間は、人をおかしくさせるのかもしれない。何故か自分も、ルルーシュに触れることが多くなった。それこそ母に甘える幼児のようで、魔女と死んだはずの騎士の亡霊、後に正義のヒーローとなる人物はどうやらここで成長を遡り始めたようだ。それはゆるゆると、けれど確かに襲い来る倦怠感にも似た変化。一ヶ月経って、その時、自分は気がついた。後にも先にも誰かに思い切り甘えられる時間など、もうない。そもそも、人にとってそんな期間は人生において幼い幼い頃だけだ。これは、ひょっとするなら幸運だった。この世界で、数人しか手に出来ないであろう幸運が、こんな段階になって自分に降り注いできた。

こうして、本格的に頭がそろそろおかしくなりそうな程に、甘ったるい倦怠感に完全に侵されきったその日、僕はルルーシュの額にキスをしてみた。
(本当は自分がして欲しいのかも)
そんな、妙な事を考えながら、ソファの背ごし、背後から細い首筋にゆっくりと指を這わせ、抵抗する気はまるでないルルーシュの滑らかな額に唇を落とす。向かいのソファに寝そべる魔女が「情熱的なことだな」と笑った。そこには揶揄が含まれていたが、嫌悪感は一切なかったように思えた。むしろ、その目の前の彼女と一種の連帯感を手に入れた気がした。ここは、誰もが願いをかなえられる場所だと、今この瞬間確信する。そういう連帯感を、手に入れた。分け合うのは二人だけだなんて、こんな少ない確率での幸運が巡ってくることなど、もう二度とないに違いない。
「ルルーシュ、」
彼は何でもないことのように額へのキスを受け流していて、自分が名前を呼ぶと酷く無防備なまま立っている自分をソファの背に手をついて見上げてくれた。僕は少し泣きそうな顔をしていたのかも知れない、次に彼は仕方ないなという風に美しく笑って、キスをくれた。挨拶のような、軽いキスだ。
「何か食べたいものはあるか?」
真っ直ぐに、僕の目を見て聞いてくれる。浮かべている微笑は、どこか呆れきってはいるけれど、やさしい。僕がそれに見蕩れていると、前方から声がした。「ピザが欲しい」というそれには、どこか棘があったがそれでも楽しそうな響きが勝っている。
「いつも食べているだろう」
「嫌だ、お前が作ったやつがいい」
駄々をこねる幼児のように、寝返りを打ちながら魔女は言う。今まで彼女を尊大な自由人だと思ってきたけれど、今は違う。今の彼女は長い長い時を遡っている。それはより本能的なところへ戻っていくということ。自分も同じだ。きっとルルーシュもそれを理解して、だから食べたいものは、と聞いたのだ。睡眠欲、食欲、性欲。それらは満たされれば、人間なんて簡単に堕ちる。知らない間に誰かの手の中だ。
(すごいな、ルルーシュは)
きっと彼の綺麗な指で撫でられて、形の綺麗な唇でキスされて、「おやすみ」とあの落ち着いたやさしい声で言われたなら、あっという間に夢の中だ。甘ったるくて、やさして、あったかくて。いつだって人の求めるものは変わらない。ぼんやりとそんなことを考え込んで、目の前にあるルルーシュの顔をじっと見つめていると、その微笑が今度は明確な笑顔へと変わった。
「お前も、言っていいんだよ。何が食べたい?」
やさしい声に釣られるように、自分は欲求の奥の奥を引き出された。「…ハンバーグ」と、それは幼い頃の好物で、今の好物とは違っている。けれど後悔はない。正直、ルルーシュの作ったものなら何でもいいという気分だったというのも、理由のうちのひとつだけれど。何よりなのは、やはり記憶の奥にあるものを目覚めさせられたからだ。本当にすごいな、ルルーシュは。その内、その甘ったるい存在に釣られて引き出されるように、彼に体までも求めてしまうかもとか、いやさすがにそれはないか、などという考えが頭を過ぎる。でももしも彼と体を繋げたらなら、とんでもない甘さと幸福感に満たされて、体が溶け出してしまうんだろう。そんな風にすっかり甘ったるさに侵されきって、彼のものとなってしまった自分の頭の中を知っているのか知らないのか、ルルーシュはあくまでも日常的に「本当にそれでいいのか?」と落ち着いた声音で問う。強くうなずけば、彼はまた笑う。
「あしたの夕食は、さながら幼稚園児の誕生日会だな」
フライドチキンとケーキでも付け足すか、と事も無げに呟いた彼は再びパソコンに向き直る。その時になって、彼が突如「何が食べたい?」なんて聞いたその本心に気がついた。僕は、とんでもなく飽き足らない表情をしていたからだ。思わず何の前触れもなく、額にキスをしてしまうくらいに我慢ならなくなっていたから。その事に気がついて、呆然とルルーシュの横に立つ僕を、いつのまにか其処にいて後ろから押しのけたのは魔女だった。ルルーシュの座るソファに勢いよく侵入し、ルルーシュはそれを気に留める様子もなく受け入れる。僕はどこか満足した気分で、寝床に戻ろうと身を翻すと、魔女が一瞬こちらを見た。それが、彼女らしくなくどこか申し訳なさそうに眉がひそめられていて、なんだか不思議な気分になる。けれど、すぐにその本心はわかる。そう、この奇妙な連帯感は、確実に計算し尽くされている。あと一ヶ月、なるべく多く、長い時間、この彼からの愛情を奪うためにいかに効率よく甘えるかという、おかしな共通理念の下。
(あぁやっぱり幼児には戻れないのだ)
計算し尽くされているから、どれだけの甘ったるさに侵されようが冷静な判断は効いた。ベッドに入り込みながら、次に起こることの予想がついている。魔女が、慣れたような仕草でいたずらっぽくルルーシュに耳打ちしたのが視界の端に見えた。そしてルルーシュは微かに笑って、その手を止めて静かに立ち上がる。僕のほうへと歩いて来て、いたずらっぽく笑いながら、自身の前髪にその細く白い、丁寧に作られた指を絡めさせて、額を撫でた。
「おやすみ、スザク」
あぁやっぱり予想は当たった。吸い込まれるように、自身の眠りたいという欲求がむくむくと体の奥から湧き上がってきて、額にキスを落とされたときにはもう何も考えられなかった。ただ、微かに自分の数分前の願いが通じていたことにロマンチックな幻想を抱いたくらいだ。あぁなんて甘ったるいんだろう。そうして眠りに落ちて、あと一ヶ月でなるべく多く、彼の愛情を受け取る方法を模索する。まずは、
(セックスは、必要事項であるか否か)
時間があまり残されていない今、最も手っ取り早いようで、しかし色々と弊害が多いこの方法。魔女と、相談してみる価値ならば充分にあるだろう。降り注いだ最期の幸運を、いかにこれから先の冷たく暗くけれど甘い未来に生かしていくか、そこに照らし合わせて。しかしとにかくわかるのは、彼はいつか全世界のものになってしまうのだろうけれど、僕らは一生彼のものだということ。それは、疑いようのない事実であった。







100102

ルルーシュにして欲しいことリストとか作ってればいい