まるでおとぎ話のようにも聞こえる約束があって、しかしそれも果たして十数年が経てばもやのかかった曖昧な記憶になってしまう。生きているというのはそういうことだ。それは精神的な話しではなく肉体的な問題であり、でなければ僕の存在(生きてすらいないと主張するものをそう呼ぶのもおかしな話だが)意義が揺らぐことになってしまう。僕は死んでいる、けれど生きている。命を果てたはずのこれもまた生と死が曖昧な生き物に癒されたり傷つけられたりして、そうして正気を保ちながら、仮面の下で静かに息をしている。
「随分、年を取ったな」
面白がるわけでもなく、そんな呟きが落ちる。合わせられた手の平は、当然のように僕のほうが大きく、それは些か筋肉が落ちて骨を剥き出しに強張っている。彼の言う様に年を取ったからだ。合わさる彼の手は、白くしなやかな指が伸びていて美しかった。
「そりゃあ、君に比べたらね」
当たり前のことだった、あれから何年経ったのだろう。最後に手の大きさを比べあったことを思い出しながら、しかし記憶をいくら探ってもそれは現れなかった。年は取りたくないな、こんな些細なことさえも時間の渦に巻き込まれて全て忘れてしまうのだから。この十数年、決して触れ合いをしなったわけではないし、そういう記憶はあるのに細部は思い出せない。考え込んでいると、ルルーシュはするりと無駄のない仕草で腰を上げて、立ち上がる。細いけれどしなやかな背中だ。
「お茶を入れるよ」
「うん、ありがとう」
遠ざかっていく背中を、あぁやっぱり細すぎるかも知れないとそう思いながら見送った。部屋に篭りきりなのだから、普通は太ると思うのだけれど、彼は以前より輪にかけて食が細くなっている。好きなものしか食べないのならまだいい、単に食べる量が減っているのだ。
(よくないなぁ)
聞こえていなければ意味もないのに、手早く緑茶を淹れる彼を眺めながら呟いた。しかしこれを声に出したところで、恐らく大した返事は期待できない。食事の量だけではない、彼は会話する回数すら確実に減っていっている。全ての数を減らしていく、これは確実に悪い傾向に違いない。変わらずにじっと後姿を眺めながら、くつろぐようにベッドの上で足を伸ばす。少しして、お茶を一杯だけ手にした彼は、その姿をまったく気にも留めることなく僕の横に腰を下ろした。
「それ、誰の?」
「お前のに決まっているだろう」
涼しげな表情を浮かべながら、カップを差し出した。それを礼も言わずに無言で受け取ったけれど、咎められるわけでもない。丸くなかったのか、興味がなくなったのか、見目は変わらずとも年を取ったのか。何にせよ、無駄な言葉の羅列を楽しむことを拒否しているのに変わりはなく。大して広くもない部屋で、こうして少しずつ何かを失っていく彼は、一体何の為に生きているのか(それは僕らにとっては禁句に等しい問いだ)。そんなものを、聞く権利は僕にはないしその必要だってないのに。
押さえ込むように大人しい横顔見つめながら、熱いお茶を流し込んでゆくとふとアメジストの瞳がこちらを向く。どきり、と心臓が揺れた。途端、姿勢を崩した彼は僕の以前より痩せたカップを持っていない方の掌を、強引に寄せてきた。特に断る理由もなかったので、したいようにさせてやる(彼が意味もなく動いたことが嬉しかったのもある)。湯気の立ったカップを持っているの方の、掌が火傷をしそうだと微かに考えた。
「本当に、年を取ったな。顔はあまり変わらないのに」
深刻そうに声を抑え、眉間に深い皺が刻んだ。大きく美しい瞳が、僕の手だけに向けられていた。
「童顔って言いたいの?」
「そんなことはどうでもいい」
あっさりと告げられ、僕は押し黙るしかなくなった。もっと、意味のないことをして欲しいのに。触れ合うだけではなく、もっと。けれど彼は黙ったまま、美しい瞳を手だけに向けたまま、彼はその白い指で骨をなぞる。酷く丁寧な仕草で、まるで何かに夢中になったこどもみたいだ。
「ルルーシュ、何がしたいの?」
「別に」
素っ気無い返事と共に、彼はその白い指の動きを止め僕の手を離す。生暖かい体温をどうしようもなく名残惜しく感じながら、また横顔を向けて静止する姿をじっと見つめる。顎に当たる湯気が心地いいようで、少し熱い。そういえば、と考える。彼はこの失うばかりの日常が始まった頃、名前で呼ぶと酷く怒っていたような気がするのだけれど(まるで遠い昔のようだ)。もやのかかったように曖昧な記憶を思い返せば返すほど、今のルルーシュは何の為に生きているのかと考えずにはいられない。わかっているのに、それでも。相変わらず、冷たくて優しくて、そして細い体躯をした彼は、どうして僕のわがままを聞くことを選んだのか。
「本当に、細いよね」
「何の話だ」
少しだけ、また目線が合ってほっとした。そして、彼はそのまま僕の方にまた手を伸ばしてきた。咄嗟に、随分と年を取ったらしい僕の手を彼に向かって差し出したけれど、もう興味はないようだった。こういうところは相変わらずだ。変わりに、僕の腹辺りに手をやって、擦るように優しく触れてくる。最近では珍しいことに、ほんの少しだけ笑いながら。
「腹でも出てきたのか?」
「君と違って忙しいから、違うよ」
くすぐったいなと思いながら、決して嫌だったわけではないのでそのままにしておく。まるでこどもに遊ばれているみたいだ。ルルーシュは綺麗な瞳を細めて、そっと息を吐いた。
「心配しなくても、その内ヨボヨボになって俺より細くなるさ」
また、心臓がどくりと鳴った。たぶん、嬉しかったのだろう。彼の瞳は、どこか老成してはいたけれどこどものように素直な寂しさを宿していた。すぐ隣にある、細い肩がいつもよりもっと頼りなく見えて、それが嬉しくて嬉しくて、けれど寂しかった(いつもこんなだ、相反する感情のふたつをコントロールしなくちゃいけない)。そうしてそんな風に、こどものような彼を間近で眺めている内に、何かが緩んだように思わず口から滑り出していた。
「ねぇ、何の為に生きてるの?」
すると、腹に触れていた手が微かに動いて、こちら側に半分倒れかかっていたルルーシュが僕を見上げた。まるで心臓の音を聞こうとでもしているような姿勢だ。綺麗なアメジストの瞳が見開かれて、そこには紛れもなく僕の顔が映っていた。少しばかり老け込んだ、僕の顔。以前とは、確かに違っているであろうもの。それごと彼をを眺めていると、次第に見開かれた瞳が細められていく。何の為に生きているか、それが禁句のように思えるのは、紛れもなく彼がその全てを僕にくれた(或いは押し付けた)からなのか。
「わかっているんだろう、わざわざ聞くな馬鹿」
曖昧に、もやがかかったようにしか考えられないから聞いているのに。相変わらず厳しいのだと、真下にある彼の微笑を眺める。それが妙に老成としていて、彼も姿は変わらなくとも年を取っているのかも知れないと考えた。考えて、それが誰の為かなんて明白なのだから、切なさを通り越してやはり込み上げてくるのは安心感だった。しかも、それは余りあるほどに絶対的な存在感を持っているのだ。
(これじゃあもう、年を取るしかない)
つくづく成長できない自分を、呪うことすら久しくしていないのに。
090324