温かな紅茶が咽を焼くように潤し、バタークッキーの甘い香りが口中に広がっていく。私は慎重に手でソーサーを探り当て、丁寧にそこへカップを下ろす。僅かな音を鳴らし、それは収まった。そして、ふと視線が降り注いでいることを感じる。心配そうな、不安そうな、そんな優しさを伴った視線だ。それの主を私は知っている。そちらに目を向け、にこりと微笑む。彼の表情は見えない、けれど恐らく罰が悪そうに慌ててクッキーに手をつけたか、カップを持ち上げたかのどちらかをしたのだろう。再び食器が擦りあう音がして、誰かの苦笑が聞こえた。
「スザクは心配性だな、なぁ?」
明るく突き抜けるような声から、それがジノのものであるとわかる。続いて、アーニャの低くやる気のない、けれど愛らしい声。今度はスザクの苦笑が聞こえて、私は笑みを浮かべる。心配をしてくれる人がいることは、とても幸福だ。私はふと、頭の片隅に兄を思い浮かべる。あの人が、私にしてくれたことの数々が蘇ってきて、けれどそれはもう思い出だ。彼の手も、声も、ここにはない。そして、その変わりもない。というより、あってはならない。どれだけ寂しく苦しくとも。けれど、それにも今は慣れてきている。今度は、私があなたに手を差し伸べるのだと心に決めたのだから、そうでなくてはならないと思っている。そうして、笑い、苦しみ、努力を重ねていくのだ。私は思考へ落ちかけた意識を引き上げるかのように、目の前に座っているのであろう青年へ明るい声を掛ける。
「ジノさん、学校は楽しいですか?」
大きく返事をし、彼は明るい調子で最近あったとある小規模なイベントのことを話し始める。私が、いた頃と同じような空気がきっと彼らの通う学園には溢れているのであろう、とても楽しそうに、声の調子だけで大仰な身振り手振りをしているのだろうと察することが出来る。彼は嬉しそうに「庶民はおもしろいなぁ」と嫌味なく(そこが彼のいいところであり、尊敬すべき点だ)締め、そして傍らの少女に幾らか先刻よりは潜めた声で話し掛ける。
「なぁアーニャ、庶民っておもしろいよなぁ」
彼のころころと転がり出しそうな軽やかな声が、耳で騒ぐ。しかし、深く、けれどか細く胸のうちに沈み込んでくるような落ち着きと愛らしさを持った少女の声が聞こえない。ふと不安になって、「アーニャ?」と恐らく彼女がいるであろう方向に向かって小さく声を掛ける。彼女の、あの愛らしい声が響くことはとても貴重だから、聞き逃さないように充分に注意しなければならないのだ。時折、心を開くように落とされる励ましや厳しい指摘、なにひとつ。だから眉を潜め、じっと返って来るのを待つ。お茶会の些細な、本当に些細な例えばクッキーを齧る音とかカップを持ち上げるときのカップの擦れる音だとかの全てが止む。
「アーニャ?」
ジノの、不安そうな声だ。微かに、誰かが息を呑んだのが聞こえた。それが誰かが、私にはわかるけれどいつだって確信は持たない。目で、見ることは出来ないからだ。そう、私はいつだって感覚で周囲を知り、構築し直す。深く沈んだ空気を察知し、私は今のお茶会のこの状況を頭に思い描く。その曖昧な世界の中で、出来る限り最善を選び、だから耳を澄まして彼女の声を待っている。
「・・・ナナリー様、私にも楽しいか聞いて」
耳に届いたのは、とんでもなく愛らしい要求で、私は「まぁ」と思わず声をあげる。首元が、ふとくすぐったいような、沸き立つのはかわいいものを目の前にした動揺と高揚。そして、それを形にするかのように、恐らくは彼女がいる方向へ満面の微笑みを向ける。
「アーニャ、学校は楽しいですか?」
「うん、楽しい」
返ってきた声音は、いつもよりどこか心が騒いでいるかのように浮き足立っている。こんな声も出すのだ、この方は。私はそれを心に刻みながら、状況をようやく飲み込んだジノとアーニャを応酬を聞いて笑う。「何だよ、俺よりナナリー様のがいいの?」「だってジノ、いつもうるさいもの」「おいひっでーなアーニャ!」「ひどくない。だって、ナナリー様のほうがかわいい」、と先程の静寂は嘘のように明るく騒ぎ立てる声が私は好きだ。幸せな気持ちになり、胸の内によどむ苦しさも緩和され癒されるこの時が大切だ。いつだって、満ち足りていたあの頃とは違い、今は苦しいことや悲しいことがたくさんある。けれど、それは過程だった。強くなっていく為の、あなたともう一度共に過ごすための。そしてそれを乗り越えるための、これはそんな他愛のない時間だ。私は、くすくすと笑い浮き上がる会話に耳を傾けながら、ほのかに甘く香るバタークッキーへ手を伸ばそうとする。
「あ、そうだ!ナナリー様、」
ジノの犬っぽい笑顔が向けられる。伸ばそうとた手を止めて、静かにテーブルに下ろす。
「はい、何ですか?」
「その面白い生徒会長さんが、ナナリー様ってかわいい〜会いたい〜って言ってましたよ。どうですか?」
一瞬だけ、空気が凍ったようなそんな気がした。それは、二重の意味だった。ひそやかに続くこの他愛のない時間にとっては彼の非常識を嗜めるものであり、また奥深くに住まう疑念から見ればそれは決定的な何かを導き出す鍵と成り得るものなのだ。「ちょっと、ジノ・・・」、とどこからともなく聞こえた声は、彼を嗜めることよりもその人自身の焦燥が勝っている。私は、満足したように笑う。
「ぜひお会いしたいです。その面白い生徒会長さんに!」
わざと(ある意味で決してわざとではない)華やいだ声とそう言うと、アーニャが低く「ナナリーさまは、やさしい」と呟いた。それは非常識な彼に対する窘めだ。この穏やかな時間を主張するものだ。ふっと息を吐き、テーブルに下ろした手を再び上げまたバタークッキーに手を伸ばす。しかし、それは届かない。一瞬宙を彷徨った手のひらの行く末を察したのか、ゴトリ、と皿が置かれる音がした。そのまま手を下ろすと、微かに手のひらに粉がはりつく。ざらりとした感触。私はその中から、薄いバタークッキーを一枚とって、移動してくれたその主に顔を向ける。ジノとアーニャの声は、変わらずに室内を盛り立てている。
「ありがとうございます、スザクさん」
そう言うと「どういたしまして」と、甘く優しい声がした。それに耳を傾ければ、私はいつだって落ち着くことが出来た。お兄様の次に、私にとってのかけがえのない存在である声の感触。あの人より甘い響きを持ち、けれど凛と強い。私は、ゆっくりと目じりを下げ、彼に微笑む。変わらずに明るい声が響いていることをきちんと確認してから、紛れるように明るい声音で話し掛ける。
「ねぇ、スザクさん」
微かに、ジノの明るく転がるような声の響く中で、確かに誰かが息を呑んでいる。それが誰だが、確信はなくともわかる。
「スザクさんも、行きたくなったらいつでも復学してください。息抜きも大事ですから」
そう言うと、僅かばかりの不自然な間が空いて、「でも僕は総督補佐だからね」と安心させるようなそんな声が肩に圧し掛かる。その声音を胸に刻み付ける。あぁ、誤魔化しているわ。彼は、お兄様より嘘が下手だ。ずっとずっとわかりやすい。そして何より、迂闊なのだ。察することが出来るであろう鍵を、知らぬ間にそこら中に撒き散らしてしまう(例えば、ジノの話しに登場する生徒会長さん。彼女はミレイさんで間違いはないだろう。けれど、今の彼女は私を知らない。それが何を指し示すのか)。きっと元来、嘘をつくには向かない人なのだろう。そんな人が、今、私を利用している。嘘をついて。たぶんその事実にすら傷つくのだろうし、けれど耐えられてもしまうのだろう。見えない中で、私は確実に彼が私の手の届く範囲から手を引いたことを悟る。
「でも私としては、やっぱり行って欲しいんです。学校に」
結局、己の目的の為に利用している点では私も同じであると、穏やかさと奥底にある疑念は笑う。
090221
意外に殺伐としている2期のふたりの関係が、とても好みです