朝焼けに照らせれた新宿ゲットーのアスファルトには、煙草の吸殻の残骸が張り付くように落ちている。漏れ出した光は酷く眩しくて、視線を掲げた瞬間瞳を貫かれたような気分になった。苔の生えた石造りの塀に、そっと白い手が掛けられこちら側にすらりと伸びた身体が傾いてくる。危なっかしいその様子に、思わず手を伸ばしかけたけれど彼はそれを見やることもなく、軽快な音を立ててアスファルトに降り立つ。足首が頼りなさそうにぐらりと揺れて、やはり手を借りるように言えばよかったと少し後悔した。たぶん、言っても聞きはしなかったのだろうけれど。滲み出す光に照らされた横顔は、妙に青白くて、黒く密度の高い睫が艶々と濡れたようで、上を向いた深紫の光彩が微かな朝日を浴びて柔らかに輝いている。この世のとは思えないほど、綺麗だった。普段、彼の造形的な美しさを知ってはいても、慣れてしまったから意識することはあまりない。ないのだけれど、でも時折、こんなに美しかったのかと随分と今更な感慨が浮かぶことがある。ふとした横顔だとか、そういう些細なものばかりだから、すぐに忘れてしまうのだけれど。
「早く帰らないとね、」
そう言えば、特に耳を傾ける様子もなく、朝と夜が交じり合う空を見上げたまま「あぁ」と答えた。動く気配は無い。聞いてないな、と少し溜息を吐けば、それは白くなって早朝の清廉な空気に溶ける。グローブ越しの指さえ少しばかりかじかんでいて、そういえば隣で立つ彼は防寒具を薄手の上着以外の一切身に付けていなかったことを思い出した。まだ本格的に冬に入ったわけではないけれど、それでも早朝の空気は寒々しいものだ。だからこそ、混じりけの無い静謐さを感じることが出来るのだけれど。それに晒されている、無防備な首元がとても頼りない。心配になって、どうにかしたいと思ったのだがしかし自分も彼に渡せるようなものは何も持っていなかった。仕方なく、安っぽいグローブを外す。これを渡して、そして早く学校まで戻れば、風邪をひくようなこともないだろう(たぶん、別にこのままだらだら帰っても風邪をひくようなことにはならないとは思うが)。未だにほろ暗い空を見上げている、彼の肩とんと叩く。振り返った時、美しい紫電を放つ彼の瞳が不安そうに揺れる。そこにはそこはかとない、深い彼の心の内が映っているのだろうとは思うけれど、鈍感な僕にはそれが何かなんてよくわからないのだ。何を思って、彼が朝に此処へ来ようと言ったのか。それすらも、よくわからないままだと言うのに。向けられた瞳を、悟られないようになんとなく見つめながら、「そろそろ帰らないと」と呆れたように笑う。彼はまた、紫電を揺らしたままこの空気のよく似合う、静謐な声で頷いた。それを確認してから、大股で一歩を踏み出した。二歩、三歩、と進めるけれどしかし背後の気配はまるで動かない。またひとつ溜息を吐いて、振り返ると先ほどと同じ体勢のまま、彼は滲み出す光を一身に受けるようにして境界のない空を見つめている。深紫の瞳が、ただ美しいばかりに淡い光を内包していて、遠目から見ればまるで宝石のようだった。あぁでも宝石はもっとキラキラと輝いているのだろうか。
「ルルーシュ、どうしたの」
少し大きめの声を掛けてやれば、彼が気がついたように振り返る。本当に、今気がついたみたいな反応だ。彼にしては珍しいと思う。振り返って、僕に真っ直ぐに向けられた彼の瞳はやはり揺れていた。少し潤んでいて、或いは泣いているようにも見えた。しかし、だからと言って彼から儚さなどは微塵も感じられなかったから、やはり泣いているのではないと思う。ならば、動揺しているのか。でも、何に?やはり此処へ来たい、とそう言ったことに関係があるのだろうか。この、瓦礫と嘆きで満ちた場所へ。頭のいい彼の思考回路は、いつだって計り知れなくて、僕なんかにはちっともわからない。彼の心の琴線は、僕よりずっとセンシティブなのだと思うのだけれど、そう言うと彼はそれはお前の方だと言って揶揄するように笑うから、ますますわからくなる。だから、こうなったら幼い頃からの慣れで判断するしかないのだ。それは即ち直感で、だから、彼は今動揺して泣いている。強かに、地に足を下ろしたままに、涙を流すことなく泣いている。潤んだような瞳が、小走りで僕に近づいてくる。あぁ、泣いている、とそう思って、間近まで来てほんの少しばかり上にある深紫を見つめ直すけれど、でもそこには涙も動揺もなく、そして自分はそれに驚かなかった。気のせいだった、のではないだろう。単に、彼が我に返るように意識を取り戻しただけだ。張り詰めた意識を。
「すまない、待たせたな」
そう謝るくせに、悪びれなく笑う彼の表情が自分は好きだ。
「別にいいけど。でも、馬頭らしいね。そんな風にぼうっとしてるの」
言ってやると、彼は少し怒ったようにでもからかうように「してないよ、スザクじゃあるまいし」と言った。あんまりな言い分を残しながら、彼は背中を向け歩き出す。「酷いな」と、何でもない風に(本当に何でもなかったのだけれど)そう呟く。いつまでもぐずぐずと留まっていたのは君の方だって言うのに。また少し溜息を吐きながら、彼の斜め後ろに着けば骨っぽく細い首がすらりと伸びているのにまた不安を感じた。そうして、握っているグローブの宛所を思い出し、慌てて彼を引きとめようと手を伸ばす。握った腕の細さに、少し驚いてしまったが。
「君が嵌めなよ」
「何で、スザクのだろう」
「だって寒そうじゃないか。そんな薄着で」
「お前だって人のこと言えないじゃないか」
「僕は別に平気だから。ほら、早く」
強く押せば押すほど、彼の表情は不機嫌に染まっていくけれど、どうにも譲れなかった。無理やり嵌めさせようと、仕方なく嫌に細い腕を引っ張るけれど彼は頑なに差し出そうとしない。また何回目かも知れない溜息を吐く。もう一度強く言えば、折れないこともないだろうと(彼は自分に弱かったから)顔を上げる。そしてふと、その深紫の瞳の奥を見た時、身体を射抜かれたような気分に陥った。揺れていた、不安なのか恐怖なのか、馬鹿な自分にはわからない何かで。涙は見えないけど、泣いているのだと思う。さっきと同じだ、彼は動揺して泣いている。きっと何かに傷付いている。
(あぁほら、やっぱり繊細だ)
僕が名前も知らない、存在すら認識できていない何かで痛みを覚える彼の方がよっぽどだと思う。彼は、少しばかり呆然としてから、呆れたように眉を下げた。「大体、そんなもの大した防寒にもならないだろ」と、その声はどこか大人びている。確かに、そうだと僕を頷かせる。でもやはり譲ることが出来ずに、押さえ込んでいる腕を強く引っ張った。すると、その腕には明確な拒否の力が篭り、数秒の攻防戦が行われた末勝つのは当然のように自分はずだったのだが。彼の深紫が、やはり奥に不安や何かを湛えたままでいたせいか、気が抜けてしまった。彼の腕は引き戻され、僕の手は宙ぶらりんに残されて、手の中のグローブは行く末を見失う。
「ほら、行くぞ」
そう言って、進み出す彼の手が低空を切る。白くて細くて綺麗で、やはりその年の男性から受ける印象とは大きく異なっていた。やはり不安にさせられるから、それをそっと掴んでやった。とても冷たく、感触も薄い。濡れたように吸い付く肌の心地は、やはり繊細だと思う。一瞬、彼が立ち止まり振り返って驚いたような表情を見せた。僕をどこか呆れたような眼で見つめているその深紫は、ただ驚きだけを浮かべていて、けれど彼の奥底は理性的に考えを巡らせている事がありありとわかった。動揺はしていない。幼い頃に培った勘で、そう判断する。
「昔からだけど、お前って変な奴だよな」
彼の笑顔が、幼い頃のように酷く愛らしく咲いたから、心が歓喜で満ちる。把握できない繊細なんて、忘れそうになるくらいに今度は強く手を握った。こういう触れ合い方は昔に戻ったみたいだ、と、口には決して出さない感慨がじっくりと身体中に染み渡った。全てを忘れそう、それくらいに嬉しい。思い出話は、まるで過去への帰り道のようだ。酷く安心する。そのまま、彼に笑みを返してから、「そうかな?」と問うてみた。「あぁ」と、完全に気の抜けたテノールが僕はとても好きだ。手を引いたまま、ほろ暗いゲットーの道を進む。少しばかり振り返った時、彼はまた朝と夜の境で染まる空を見上げていた。濃紺が、次第に橙に食われていく。深紫のぼんやりとした瞳が、それを映し出す。彼がそれに、傷付いたように目を細めたことに、僕は知らない振りをした。出来るなら、僕の背中だけを見ていて欲しいと思った。少しばかり手に力を込めて引く。曖昧に笑った彼が、その後ろを歩く。戦闘後、碌な整備がされていない足場の悪い道路を進む。滲み出た光が、眩しい。足を、止めた。触れている手は冷たかったけれど、そんなことはどうでもいいくらいに何故か温かい。視線だけを、身体を捻って彼に向けた。
「ねぇ、ルルーシュ」
この優しく温かい手をひいたまま、この道を辿って、その先に可愛らしく微笑むナナリーが待っている。そんな幻想がふと駆け巡る。それは温かいだけの色をしていて、そのためなら、裸足で走ることになってもまるで構わないと心底思った。どんなことになっても、構わないから。それが現実において馬鹿げていることは、知っていたけれど。
「何、スザク?」
向けられた瞳は、最早意識を取り戻していいて、けれど、きっと激しさを奥に内包していた。そんなものは、いらなかったのに。全て捨て去って、帰ってしまうおうという、ただそれだけが言いたかった。
「ごめん、何でもないよ」
たぶん、繊細な君は、言葉に頷いてもそれを許しはしないのだろう。そして、世界が許してくれない限り、僕も。







090116