ひらひら、ひらひらと千切った花びらを降らせる。それらは濁った水面に華麗に降り立ち、其処を微かな流れに沿って滑りくるくると回る。その下では、美しい尾ひれを見せびらかす魚たちが、細かに身体を震わせながらのろのろと泳いでいる。急いで泳いでいる時は苦しんでいる証拠だと、どこかに書いてあったので少しばかり安心する。正しい方法で水を変えてもらえたようだ。そんなに不安ならば自分で変えればいいと、そう言われるかも知れないが、自分が言い出したところで誰一人許してくれないことはわかっている。あたり前のことも、言い出せばただの我侭になってしまうのだ。眉を下げて、また千切った花びらを水面に降らせる。魚の尾ひれと似て、それらはとても可憐で美しい。私は満ち足りた気分になって、水槽の隣にある花瓶に活けてある花からまた一枚、花びらを千切る。ふわりと、優しく手を放せばそれはくるくると舞って水面を滑る。私はまた、満ち足りた気分になって自然と微笑んだ。魚達はそんなものは気にしないと言うように、可憐に尾ひれをはためかせながら私の前を横切るだけだ。でも、それすら酷く愛らしい。両手で包んであげたいと時折、そう思うけれどそれをすれば魚達が死んでしまうと言うことが、私にとっては辛いことだ。
「・・・楽しいですか?」
控えめな問いが、誠実そうな声が、響く。私はとても満ち足りた気分でいたから、「えぇ」と上機嫌の声で答えた。戸惑いを隠せない空気が流れていたけれど、それでも私は満ち足りている。この水槽は、とても狭い。だからこそ、こうしていればいつかは全てが美しく可憐な花びらで埋まってしまうような気がして、幸せになれる。実際は、いつかは水を取り替えられてしまうから叶わないのだけれど、でも可能には違いない。この水槽は、私のものだ。ふと、ある考えが思い浮かぶ。私が水を替えることを、誰一人許してくれないとしたって文句を言われる前に私がしてしまえばいいのだ。なんて簡単なことだろう。また、自然と微笑を浮かべながら一枚、花びらを水面に降り立たせる。傍から見れば、私はきっと小さなこどものような行動をしている。それでも、私にとってはこれが幸せなのだから、構わないのだろう。振り返ると、戸惑いを浮かべたままのスザクが困ったように笑っている。この笑顔が、私は好きだ。花で埋め尽くしてしまいたいほど、彼の笑顔は美しかった。
「とても楽しいんです。たぶん、馬鹿みたいに見えるだろうとは思うんだけど」
「、そんなことは」
「嘘、スザク。だってあなたとても困った顔をしてるわ」
にっこり笑うと、彼はまた困ったように眉を下げて「すみません」と謝った。謝らなくていいのよ、と笑えば、きっと同じ事が繰り返されるとわかっていたから、私はまた笑っただけだった。胸が少しばかり、鈍く軋んだのがわかる。そんなに困らなくていいのに。いつだってそう彼に語り掛けたいけれど、その言葉はきっと彼を困らせる。なんて難しいのだろう、彼が、ただ息をするように自然と私の愛を享受してくれる方法を模索しているだけなのに。私は、彼の翡翠の瞳をじっと見詰めながら、考える。この魚達のように、貴方が酷く素直だったらいいのに。それでも、最近はやはりどことなく頑なさがほぐれてきたようには感じているのだけれど、やはり足りない。綺麗なものは、何ひとつ恐いところなど無い。そのことをわかって欲しかった。またひとつ、花びらを千切る。ひらひら、ひらひらと空中を舞うそれは美しい。そして、それは吸い込まれるように濁った水の中へ沈み、水槽を飾り立てる。また花びらを千切ろうと、花瓶に手を伸ばせばとある一本が既に丸裸になっていることに気がつく。寂しく緑が垂れ下がるその横で、ルージュオレンジの花がふわふわと揺れている。私はまたひとり微笑んで、振り返る。スザク、と呼べば彼はまだ戸惑ったまま、私の顔に耳を近づけるように身を屈ませる。それを止めるように、私は彼を見上げて、ゆっくりと微笑む。
「スザクも、やってみますか?」
「いえ、僕は・・・」
高い花の花びらを千切ることに抵抗を感じるのか、それは無礼に値すると考えているのか、とにかくまた眉を下げて必死で断りの言葉を探している姿はとても愛らしくて、同時に湧き上がったのは罪悪感だった。やはり、困らせてばかりだ。彼の顔を見つめて、私も同じように眉を下げてしまう。すると、彼がますます表情を曇らせた。スザクも、或いは自分が今思っていることと同じ事を私に対して思っているのかも知れないと、ふと考える。堂堂巡りだ、やはり難しい。私は美しいルージュオレンジを咲き誇らせるその花を手に取り、彼を見る。やはり表情は曇っていて、眉は下がっている。
「ごめんなさい、冗談よ」
少しだけ舌を出して罰の悪そうな顔をすれば、彼はほっとしたかのように笑ってくれた。幸せだった。香りを楽しむかのように、美しい花を口元に近づけ、鼻梁へと寄せる。甘い香りが脳に入り込み、全てを溶かしてくれるような気がした。あぁ、これなら。私はその一部を千切る、贅沢にも最も人目を引く美しい場所を。そして、また優しく手を放して、それがひらりひらりと舞っていく様を見つめる。水槽の中にも甘い香りが響き渡り、魚たちが喜んでくれればいいと願った(実際は、そんなことは在り得ないのはわかっている)。魚達は、降り注ぐ花びらたちをまるで気にも留めずのろのろと尾ひれをはためかせ泳いでいる。身体に花びらが触れても、まったく気にした様子など無い。狭い世界を、意識した表情などまったくしていない。あくまで美しいまま。あぁ、もうこれくらい傲慢でいればいいのに。謙虚な彼をもう一度見つめて、「綺麗ね」と笑った。きっとこれ以上とない笑みだろう。
「この子たち、何にも恐がらないのね」
至上の笑みのまま、彼にそう告げる。少なくとも、魚達は何も戸惑ってはいない。傲慢にも、美しいまま狭い水槽をのろのろと泳ぎつづけている。私はまた、花びらを千切り、ひらりとそれが水面に降り立ち沈んでいく姿を眺める。私は、もしこれが魚たちに毒であって、それでこの子達が死んでしまったとしたってそれで構わないと本気で思っている。ふわりと今度は濁った水中を舞う。私はそれを、指で辿った。落ちていく様を、辿っていくとまた一匹の魚とぶつかるけれど、やはりその子は何も気にしていないかのように、通り過ぎる。やっぱり、何も恐がっていない。ねぇスザク、とそう語りかけ振り向くと、彼は先刻と同じように表情を歪ませ、美しい翡翠の瞳を開いたまま、眉を下げていた。困っているのだ、とそれだけは嫌と言うほど伝わってくる。私は痛んだ胸に甘い香りが広がっていくのを感じながら、俯いてまた花びらを千切る。まるで、いじけたこどものようだ。自分でもわかっていながら、でもやめられない。すると、ふと、小さな溜息のような声が聞こえた。見上げれば、スザクがおかしそうに笑って、「ごめん、ユフィ」と謝っていた。謝らなくていいのに、とまた思いながら、私も微笑んだ。千切った花びらが、今度はただただ空中を舞って、ふわりと絨毯の上に柔らかく降り立つ。この眩いばかりに美しい笑顔を、いっそのことこの水槽に閉じ込めてしまいたかった。







090108