燻る思いを抱えたままあの人の墓標に立つことだけは許されないのだと思い、整えた身形のまま頭から水を被った。こんな廊下の隅の平凡な水道で頭から水を被る男など、おかしな者でしかない。そのことがおかしくて、でも上手く笑うことなど到底できそうにもない。引きつったまま顔を上げれば、廊下を流れる空気が先ほどより冷たく感じられる。少なくとも、水を浴びるような季節ではない。外には雪が舞っていて、頑丈な自分でも身震いするほどに冷え込んでいる。指先を伝っていく水が落ちる音ともに振り返れば、小柄な少女がその体格に似合わない重苦しい表情で、真っ黒なワンピースに身を包んでいる。その全てで、死者を悼み、悲しんでいるのだとわかる姿。日ごろから色が白かったけれど、ますます蒼白と化した手を膝の前で合わせて、こちらを見る。その目はどこか遠くを見ていて、何も映してはいなくて、ぼんやりとただ狂気だけを浮かべている。絶対的に、何かが足りていないということだけはありありとわかるその表情。黒い服、重苦しい空気、墓標に彫られた名前。足りない、足りていない。手から滑り落ちたものは、永遠に失われているのだということだけがはっきりとわかる。彼女の目には、何も映っていない。研究に没頭し、我を忘れてひたすら指先を動かす姿と、頑なに笑みを失っていっている自分は誰かの目から見たら重なるのだろうか。
「ニーナ、どうしたんだい?」
隈で象られた目がぼんやりとこちらを見たまま、静かに吊り上げられていく。そして、ぼろぼろと涙が零れていく。それで溢れ返っていく何かが絶対的に欠けた瞳は、胡乱げなまま感情的な視線を放っている。異様だった、人が、単なる十代の少女が、こんな表情ができるのだろうか。それとも、自分も同じ顔をしているのだろうか。どうしたらいいかわからず、ただその場に佇んでいると泣いたままの彼女が口を開く。「ユーフェミア様は、」嗚咽で切られたその名前は、ここ最近何度も何度も彼女の口から零れ出ているものだ。彼女にとっての女神で、全てで、そして僕の最愛の人の名前。呟くたびに広がるのは、どうしようもない喪失感だ。もう彼女はいない、そのこと事態が酷く絶望的で重苦しい。彼女は、本当に自由で、無邪気で、明るくて。そして何より、優しい人だった。その優しさで全てを取り込んで、巻き込んで、染め上げてしまうようなそんな人だ。もっと彼女といて、あの優しさに触れていたいと願っているのに。あの無条件で、綺麗なのに嘘くさくなどない、酷くまっさらな。
「優しい方でっ綺麗で、私みたいな奴のことも・・・認めてくださって」
途切れ途切れの彼女の言葉は、切迫して今にも消えそうな声色にも関わらず、激情が剥き出しになったかのように棘があって無神経だ。僕は、この先に彼女に言われるであろうことをわかっている。膝を震わせながら崩れ落ちた彼女を支えると、遠慮もなにもない細い力で僕の腕を小さな手が掻き毟る。情緒が不安定なその仕草をする少女を、それに似つかわしくないほどぼんやりとした落ち着いた瞳で、涙を流しながら感情的に叫ぶ。
「許さない・・・ゼロを!ねぇ、スザク、聞きたいことがあるの。ゼロは、ゼロはどこ?あなたなら知ってるでしょ?スザク、私、あいつを・・・」
その先は、ただ耳を塞ぎたくなるような言葉の羅列だった。その身体を刺したい、殺したい、全てを壊したい。その醜い顔を踏み潰して、目をくり貫いてぐちゃぐちゃに潰して、焼き尽くして引き裂いてしまいたい。何度だってユーフェミア様が味わった苦しみを味あわせてやりたい。私がこの手で、そうしたいと。胡乱げな瞳で、何も映さないままただ言葉を零していく様は、まさしく異様だ。僕も、彼女と同じように、何度も夢に見た。彼をこの手で刺し殺す瞬間、醜く叫ぶ頭を床に打ちつけたときの感覚。死んでみせろ、と思った。死んでユフィに詫びてこい、許すことなどしはしないが。そして同時に、死んでしまってユフィと同じところへ逝くことなど許さないと思った。ならば生き地獄で、どうしようもない生と死の狭間にでも立って、生きればいいのだ。苦しみ喘ぎながら、醜く叫びつづけて。誰もが素通りしていく、そんな場所で燻りつづけていればいい。そうして彼女を、ユフィを生き返らせて。同じように、きっと彼女も思っている。だからこうして叫んでいるのだ。でも、僕はそれをどこか遠い視線で、見つめている。
「ねぇ、あいつを私も殺したいのよ!」
叫び響いた、その声は静寂な空気の中で異様な気配を発していた。細い肩は震えて、真っ黒いワンピースで包まれた小さな体がより一層弱々しく目に映った。涙で溢れ返った瞳は、何も映していない、どこにもいない奴を切望している。そうだ、殺したんだ、ゼロは。「もう、ゼロは死んだよ。」
「それでも殺したい!何だっていい、あいつを」
あいつを殺せば彼女が還ってくると、きっと彼女はどこかで思っている。僕も、そう思っていたかった。まるで何も知らない子どもみたいに、むせび泣いて、切り刻むことを求めたい。けれど、どこかで冷め切った自分がむせび泣く彼女を見つめている。この行為に意味がないこと、彼女が還ってくることなど二度とあり得ないことを露呈する。他の誰かが、僕と彼女の姿を重ねたとして、けれどそれが重なることがないのは僕自身がよくわかっている。優しい彼女のことを思いたい、思っていたい、けれどそれが血塗られていく瞬間、確実に現れる誰か。あいつは、僕に何を与えたいのだろう。優しい、無邪気で、まっさらな彼女のことだけを思って眠りたいのに、どうしたって忘れられない影が付き纏い、僕をこうして立たせている。無理矢理水を被ったところで、消えることなどない存在。彼女の墓標に持っていくには、酷く似つかわしくない汚らしい人(そうだ、あいつは汚いのに。なのに)。気持ち悪い、消え去ってしまえばいいのに、どうしてお前は。
「あなたが羨ましいのよ、私。ユーフェミア様の騎士で、そしてゼロを殺すことが出来たあなたが。ねぇ、私にも、殺させて」
もう、死んだのだと言うことが、どれだけ彼女にとっての絶望に繋がっていくのか。それでも、僕は同じ言葉しか言えなかった。「もう、ゼロは死んだんだよ」瞳はただ揺れたまま、怒りをより深い悲しみで消し去っていくようにゆるゆると目尻が下がっていく。言葉を理解できたかのように、次第にその顔色は落ち着きを取り戻したかのように見える。けれどそれでも狂気に満ち足りて、感情的な視線で射る彼女を見ると、あるいはやはり同じなのかも知れないと思う。彼女が恨みを晴らしたい者は、もうこの場所にはいない。僕が屈辱的な罰を科したまま、ただの世界の傀儡となった。力をこめて僕の腕を掻き毟る腕が、眼光を細くしていくそれに伴うようにして静かに降りていく。静寂には、彼女の異様な泣き声の余韻だけが残る。いつだって、何かがこの身体に残って、忘れられない。それらが、忘れたくないものを侵食していくような気がして、酷く恐ろしく苛立ってしまう。引き裂きたくなる、でも引き裂けはしない。僕が、遠ざけてしまったから。そして何より、彼自身が、僕に刻んでいってしまったのだ。
(そんなもの、いらなかった。ただ叫んでいられれば、その方が)
膝をついたまま、涙を浮かべたまま、けれど静かに立って僕を見る彼女の目は胡乱げで、けれどただ感情的に揺れて細いながらもギラギラと異様な光を放つ。あぁ駄目だ。やはり、重ならないのかも知れない。立ち現れる記号をただ憎む彼女と、憎みながら戸惑い苦しむ自分は。どうしてだろう、こんなにもこんなにも、彼女にここにいて欲しいと願っているのに。ぼんやりと浮いたままの彼女の目が、僕から離れそうして背を向けた。どうすることも出来なかった。頭を冷やしたって、眠っても、どれだけ感情に身を任せても、むしろ任せれば任せるほど、そいつは立ち現れてくる。生と死の狭間で、混乱で叫びながら立ち、苦しみ生きているのは自分の方なのかもしれない。何処へ向かえばいいのか、ずっと不安定なまま、けれどひとつの何かを目指している。ぐらぐらと揺れる思考が、酷く優しい彼女の夢を見たがっているのに。
「ロイドさんが、3時からだからって。それまでにはちゃんとしておいてね」
少しだけ振り向いた彼女は、少しばかり冷たい、けれど涙声でそう言った。真っ黒に包まれた体が翻る瞬間、見えた目は、やはり輝きすぎた妙な光を放っていて、目の下は隈で象られていて、そして映っていたのは微かな失望だ。僕には、彼女の墓標に立つ資格すらないとでも言いたげなような、そんな風にも見えた。その視線に、酷く苛立った。激情の狭間の中で、穏やかな祈りと悼みを探しているのは彼女も同じだろうに。
「わかってるよ」
苛立ちを込めた返答に、彼女が振り向くことはなかった。
081102
私的にとても好きなふたり