肩口に埋められた頭が、少しだけ上向きになり深紫の眸が間近に感じられた。長閑な空の下、真昼の光を吸い込むような不思議な光彩は、幼い頃と何も変わっていない。身体全てを預けるように、彼は僕に真正面から寄りかかっている。彼が、こんな風な行動をとるのはとても珍しいことで、だから僕はどうすればいいかわからない。けれどわからないなりに、自然と手が彼の背を撫でた。たぶん手にしていたサンドウィッチを落としてしまったけれど、そんなことは些細なことだと思える。できるかぎり、優しく、もっと優しく。そうして撫でていると、ふと間近にあった眸が揺れた。何を映すわけでもなく、ただ揺れた。彼の細い手が、そっと伸びるのがわかる。髪に触れてきて、その手は届く範囲だけをくしゃくしゃと掻き回す。この構図から気遣いを引けば、残るのはじゃれ合いという酷く単純なもの。僕らはそれさえ出来れば、あの頃に戻れる。ただ大切だと叫べたあの頃に、ごく容易に。
「スザク、お前のランチが草むらの上だ」
「知ってるよ。でも君のほうが大事だから」
「嘘つけ」
くつくつと、笑いを零す。僕はそれを見つめる。幼い頃と変わらないはずの彼の眸が、細められる。嘘ではない、そう思った。ただ一回きり、食して終わりの購買で買ったサンドウィッチなんかよりも、比べ物にならないほど、幼馴染の君の方が大事だ。そんなことはあたり前だ。だから、僕は少し眉を下げた。君のほうが大事、それは本当のこと。だからそんな風に、軽く笑い飛ばすなんてのは酷い話しだと少し苛立った。彼はそんな僕の表情から何かを読み取ったのか、またくつくつと、抑えきれないという風に笑う。笑いながら、僕の首筋に回していた手を解き、僕から身体を少し離す。フワリ、と彼のしなやかな髪が顔に当たる。やわらかい感触は、ナナリーと似ている気がする。彼の黒髪は、硬質そうな見た目に反してとても細くてやわらかだ。彼の白い手が、草むらの上を彷徨い小さなランチボックスに伸ばされる。その時、また彼は全体重を僕に預けるように、けれど僕の顔が見えるようになのか頭は浮かせたまま、寄りかかって笑った。
「ほら、食べろ」
差し出されたのは、おにぎりだ。中身はわからない、でも綺麗な三角おにぎり。彼がこれを手にしているところは何度か見たが、未だに違和感だらけだ。まだサンドウィッチを持っているほうが、納得がいくというか。包まれていたラップが、細い指に丁寧に剥がされ強引に僕の口元へと押しやられる。彼は酷く楽しそうにしながら、食べろ食べろと言ってくる。僕は、それに抵抗する。別に、彼のおにぎりが食べたくないなんてことはない。ほんのり漂う塩の香りは、僕の食欲をそそるには充分すぎるほどだった。けれど、何故か抵抗してしまう。彼のこの一連の行動が珍妙過ぎるからなのか、それともただの意地張りなのか。よくわからないまま、ただ堅く口を閉じていると、彼が手を降ろす。小さな溜息がひとつ、吐かれる。そして彼は呆れたように泣きそうに、でもからかうように笑う。「騎士なんて仕事、身体が資本だろ。食べないとやっていけないぞ」綴られた言葉には、僕にそれを食せざる得なくさせる縛りのような効果がある。僕は、彼の催眠術か何かに掛かったように自然と口を開く。彼はまた、くつくつと笑う。口に含まれたそれを齧れば、やわらかくほんのりと塩の香りが広がる。さすがは料理上手な彼だけあって、バランスは程よいものだ。やさしい味がした。
「ほら、もっと食べろよ」
また笑っている彼に、少しだけ吊り上げるような笑みをお返しする。ふたくち目で、具の正体がわかる。中身は梅だった。しその強い味が染みていく。思えば彼は梅が苦手で、食べる度に涙目になっていたからこれは僕の為に作ってくれたものなのだろう。彼が僕の為に作った食物が、僕に取り込まれて僕の身体の一部となる。さっきのサンドウィッチよりもよっぽどの愛情の詰まったそれが、僕の身体の一部になる。でもこれよりも、やはり比べ物にならないほどずっと、君のほうが大事だ。本当のことのはずなのに、何故かそこには歪さが残る。嘘だ、とそう言った彼の言葉のほうがよっぽど真実味があるように思えてくる。まるで切り捨てるかのように、笑った彼の方が正しいように思えてくる。だから、もう言わない。目を背けたい。ならば余計なことは言わないに限る。「お、ひ、しい」口の中がいっぱいで喋り難かったけれど、どうにかして伝えてみせた。彼は、また笑う。「俺が作ったんだ、おいしいに決まってるだろう」どうしてか、彼は最近こういう笑い方しかしなくなっている。貼り付けているわけではない、ただ、本当の笑顔が何かで濁ってしまったかのような、そんな表情。考えればわかる、その理由から、僕は目を背けたくてしょうがない。でも際限なく、それは彼といれば立ち現れてくる違和感であり事実でもある。あの頃から、僕の世界を広げてくれた君は僕を捉えたままだということ。その事実に胸が焼け焦げてしまいそうで、彼の細い手からすっと半分になったおにぎりを奪い取る。彼は一瞬だけぽかんとして、また笑う。同じこと。僕は無性に先ほどとは比べ物にならない苛立ちが湧き上がるのを感じて、奪ったおにぎりを何も言わずに食べきってしまう。彼はそれを、喜色とも驚きとも、なんともいえない表情で見つめていた。僕はそれをなるべく見ないようにしながら(それでも間近にある彼の顔は目に入る)彼が作ってくれた、おにぎりを必死で頬張る。
「ありがとう。おにぎり食べたの、久しぶりだから嬉しいよ」
食べ尽くしても、どうしてか苛立ちは湧き上がる。でも口調だけは優しいまま。
「どういたしまして。仕事、がんばれよ」
また肩口に頭を埋めながら、彼は素直にそう返してきた。わかっているくせに。僕は今のべたついた手で、彼の背を撫でていいものか迷ったが、でも耐えられなくて手を回した。そうすると、彼も僕の首筋に手を伸ばして、また届く範囲に限りくしゃくしゃに髪を掻き回してきた。さっきより、少しばかり乱暴な手つきだ。ほら、思っても無いようなことを言うような真似をするから、こんな風になる。君の嘘なんてすぐに見抜けてしまうのに。僕はできるかぎり優しく、と意識していた手に強い力をこめて、終には湧き上がる何かに身を任せるように腕ごとで彼の身体を掻き抱いた。途方も無い苛立ちが、身体の中で単なる熱に変わっていく。さっきまでは微かに伺うことのできた、彼の表情が見えなくなった。でも、肩口に、首筋に、彼の呼吸が感じられた。耳に直接、彼が息を詰める音が叩き込まれる。彼の手にも、力が込められていく。苦しいのだろうか。でももう、どうすることもできなくて、僕はより一層の力を込める。今、掻き抱いたこの手に気遣いなんて無い。そのはずなのに、今此処にあるのはあの頃の僕らではない。形だけが似ていて、あとの全てがまるで違っている、酷く歪なもの。
「スザク、痛いよ」
「うん。君は、相変わらず力が無いね」
「そうじゃないだろ」
「そう、って?」
「だから、痛い」
それでも、叫びだしたい思いが身の内で木霊して彷徨うその熱さに、従ってしまう。細い身体を掻き抱いた手はきっと熱い。力の込められた彼の手も、きっととても熱くて、だから触れられている首筋が熱い。彼のその呼吸も、耳を焦がしてしまうくらいに。そして僕の身体の奥も熱かった、泣きたいくらいだ。どうして、抑えきれないのだろう。今でも、僕の世界を限りなく狭めてしまった君は、僕を捉えて離さない。たぶん、君も同じだ。僕はきっと、君を捉えて切れてなどいないけれど。どうしてだろう、どうして。どうせ、君は罰など与えてはくれないのに。曝け出してなどくれない、いつだって、君は僕より弱いくせに意地っ張りだ。ねぇ、僕を肯定して、ルルーシュ。与えてくれた君の望み通りではない、でも今、確かにもう一度生きようとしている僕を。
「なぁ、痛いよスザク」
僕の背に回された彼の手が、弱々しく草むらの上に降ろされる。波に石を打ったように、呑気なチャイムが煩く鳴り響いた。僕は弾かれるようにして、全ての力を抜き、彼から離れた。にぎやかな生徒達の声が、一瞬だけ消えて、そしてまた騒ぎ出しそれらは遠ざかっていく。美しい光彩は、昼の光を吸い込み変わらない強さで此処にある。それだけは、あの頃と、まるで変わらない。けれど、それに映る僕は変わった。君に会った時から変わり続けて、今また新たな出会いを遂げて、変わろうとしている。そして映す眸の持ち主である君も、変わってしまった。きっと、僕に会う前から変化し続けているのだろう。だって彼の変化の起点は、僕ではない。僕が今、君じゃない誰かの手を取って、もう一度生きようとしているように。時は戻らない、変化したその空白を埋めることはできない。その証拠に、彼は意志の強い眸に反して、口元だけはは穏やかな笑みを浮かべている。そうして、君は僕に求めることをためらって、僕は君に何かを求めることなどできなくなってしまう。お互いに、お互いへ求めているのに。ルルーシュ、君は
(もう、あきらめてしまったの)
緩く笑みを象るその赤く熟れた薄い唇に、押し付けるようなキスをした。やわらかい、だがどこか物足りない禁欲的な感触が一層なまめかしい。彼からの抵抗はない。濡れていく、魅惑的に熟れたそれに誘われるようにして、どうにもできなくなった僕は熱い咥内へ侵入する。歯列をなぞり、ひたすらに掻き回す。薄い舌を舐め上げるように絡め取る。粘液がどちらのものかわからず、混ぜ合わさってぐちゃぐちゃになる。耳につく、いやらしい水音と息遣いだけがやけに響く。感触なんてわからないほどに、伝わる温度だけが熱かった。熱くて熱くて、それでも、全ては変えられないのだ。きっと、顔を上げれば強く美しい光彩を放つ深紫の眸があって、其処にはそれ以上に強い意志を暗示させる翡翠の眸が映っている。もう一度、彼の身体を掻き抱けば、彼の手が、僕の首を絞めるように回ってくる。怖くて、怖くて、だから離したくない。でも、誰よりも離すこと願っているのはお互いだ。押し付けあった体温が、糸を引く。それがぷつりと切れる。僕らは意地っ張りで状況の把握だけは最善だったから、さようならなんて、きっと言わないんだろう。







080927
傍から見たらただのバカップル