自身が横たわるソファのこの柔らかな感触には覚えがある。恐らく自身のものではあるが、しかし妙な匂いが染み込んでいるように思う。頭がぐらぐらして、気持ちが悪い。瞼が重くて、少ししか目を開けていられないのでとても歯痒い。ゆるゆると上げた視線の先は、酷く滲み歪んでいる。全てが見辛く、まるで夢の中のように体の感覚が鈍く頭が働かない。酒瓶が散らばる床は、見覚えのある光沢をしている。人が、5人いる。真っ先に、車椅子に乗る盲目の少女を探す。
(名前は、なんだったか)
忘れるわけなどないのにどうしてか、思い出せない。周囲には見当たらず、どこにいるのかという疑問と共に些かほっとして息を吐いた。このような、酒瓶で散らかった部屋にはいて欲しくはない人だ。けれど、やはりその理由を思い出すことは出来ない。歪む視界に映る5人の人は、顔を紅く高揚させている。3人は談笑しており、2人は酒瓶を片手に何か楽しげに騒いでいる。しかし、何を嬉しそうに話しているのかはまるで聞こえないし、騒ぐ声は最早ただの音としか認識ができない。その乱雑さの割に、彼らはきっちりとした制服を着込み上着のボタンひとつも外してはいない。不思議なものだ。このような騒ぎは嫌いである自分も何故か嫌悪感は感じず、むしろ彼らのその姿を微笑ましいと思える。学生、だろうか。見覚えがある。顔にも、その仕草や姿、全てに。けれど、名前は思い出せない。思えば、そもそものこの騒ぎが何のためのものであるかも、よく思い出せない。確か、誰かの何かを祝うためのものだった。しかし、それを考えると鈍い体の感覚の中、心が鉛のように重くなるのだけが確かに感じられた。嫌だと、思った。一体、何を嫌だと思うのかの検討もつかないというのに、酷く悲しく、体が引き裂かれたような気すらするのだ。
(もうひとり、人が)
霞む視界の中、遠くの方でドアの開き誰かが入ってきているのが見える。遠さと、彼自身が俯いているせいで顔はよく見えない。しかし捉えることの出来る背丈、仕草には他の5人と違いさっぱり見覚えがない。だと言うのに、どうしてか見ていると気味が悪くなる。この人自身に見覚えはないが、とてもよく知っている人物のような気がしてくる。証拠に、その仕草を予測することが容易なのだ。こんなにも、意識が朦朧としている中であるにも関わらず。その人物は、談笑している中のひとりに、俯きながら近づいていく。表情は、伺えないがしかし纏う空気は重たげだ。見ていると、こちらまで暗く塞ぎこみたい気分になる。彼があるひとりに近づけば近づくほど、視界が霞んでゆく。歪み、滲み、もうほとんど捉えることなど出来ない。そんなにも自分は眠いのだろうか、それともこれは夢の中なのだろうか。意識が朦朧として、何もわからない。ただ視界は霞んでゆく、歪んでゆく、滲んでゆく。ふと、この感覚を知っているように思う。しかし、やはり思い出せなかった。そういえば、自分の名前も、思い出せない。
(嗚呼、顔を上げる)
俯いていた彼が、ゆっくりと顔を上げてゆく。蒼白で、瞳はすみれ色だ。霞みながらも、微かに見える横顔は、端正なものであることがわかる。しかしどうしてか、見ているととても気味が悪い。顔が、ではなく全てにおいて彼という存在に気味悪さを感じる。なんとなしに、理解する。こいつは、きっと自分なのだ。別に驚きはしない、ただ、その事実が朦朧とした思考にすんなりと滑り込んでいく。あいつは、自分だ。自分は、すみれ色の瞳で、5人の中のひとりを捉える。真っ直ぐに、見つめている。栗色の髪に、翡翠のような濁りのない瞳。知っている、見覚えがあるとかじゃない。自分は、俺は、この人物を知っている。
「す、ざく」
どうして、一番、大事な人の名前すら思い出せないのに。自分の名前も思い出せないのに。どうしてか、彼の名前だけが自然に思い浮かび、そして口にしていた。滲んでいたはずの視界が確かな熱を持って、落ちた。水滴が、光沢のある床に落ちる。あぁ泣いていたのか、俺は、ずっと。最早、どちらの自分が涙を流したのかすらわからないほどに、意識が朦朧としている。理性が、なくなりそうだと思う。翡翠の瞳が、驚愕で染まり慌てたように何かを言うのがわかる。しかし何を言っているのか、聞こえない。そう言おうとすると、水の中のように、泡ぶくだけがただ浮いて消える。悲しくなった。心が鉛のように重く、体が八つ裂きりされたような気がする。彼は、宥めるように自身の背中に手をやってくれた。ぬるい人肌の体温が、あるはずなのにわからない。悲しくなる。意識が、途切れそうだ。なぁ待って欲しい。言わなくてはならないことがあるのだ、彼に。意識が終わる前に、理性を失う前に。祝ってやらなくちゃいけないことが、友達なら共に喜ばなくてはならないことが。けれど全ての言葉が声が、ぶくぶくと、泡のように消える。ただ涙だけが、溢れていく。美しいはずの翡翠の瞳が次第に濁って、揺れていく。息苦しくなる。酸素を求めて、もがいて、それでも意識が鎖されてく。そして、息を吸うようにして、何かを叫んだ。これが自分の声かと思うほど、気味の悪い、何かが弾けたような金きり声がした。
「お前はナナリーの傍にいればいいんだ」
「軍人なんかやらなくていい」
「ユーフェミアの騎士になんかならなくていい」
「あんな化け物にお前が乗らなくたって、俺が!」
理性が飛んだ。自分は、いつのまにか真正面で、翡翠の瞳を見つめていた。叫んで、全てをぶつけていた。視界が、涙なのかも何かもわからないものでただひたすら滲んでゆく。意識など、ない。ただぶつけたい思いだけが溢れ返って、何も聞こえなかった。翡翠の瞳は歪んでいた。スザク、俺は、何をお前に言ったのだ。あの子の次にお前が大事で、だから、お前になにかを求めるなど、そんなのものは馬鹿な話なのに。歪んでいた視界が、消える。自分が、この場所が消える。最期に見えた翡翠の瞳は、困惑で揺れて、酷く傷ついた色をしていた。なぁ、俺は、何をお前に与えたかったのだろう。あんな暴力のような叫びを浴びせたくは、なかったはずだ。なのに、自分は。どうしてなのだろう、どうして、どうして
(知っていたか?この夢の中では、心からの思いしか言葉にできないんだ)
人を馬鹿にしたような、嘲笑うような笑みが、遠くで見えた。そいつは、泡ぶくのように消えた言葉に、意味などないと俺に告げた。ぶつけた本心だけが、此処では許されたものになり得るのだと。ふっと、どうしてか、急に息がしやすくなる。酸素を、求めてもがくことも苦しむこともなくなる。それでも悲しくて、心が鉛のように重くて、体が八つ裂きにされているように痛くて痛くて涙が出て、そして、笑った。口元を歪めて、心から。
「そんなことは、わかっていたさ」
嘲笑うような笑みへ、似たような笑みを返してやる。何もかもがわからない、意識は鎖された。理性などない。ここでは、それらに意味はない。叫べ、喚け、と誰かが自分を嘲笑っている。もう見えないはず視界が、歪んで熱を持っているのがわかる。ひっきりなしに上下する肩が、肺が、惜しみ気なく酸素を裂けた体に取り込んでいく。息は出来る、でも苦しかった。痛かった。俺はまだ、泣いている。溢れ返る涙を抑えきれず泣き続けている。嘲笑が、近づいてくる。そいつはただ笑うだけで何もしない。俺の涙を止めることはもちろん、首を絞めることも何も。苦しい、苦しい、苦しい。息は出来る、酸素はある、それでも苦しい。痛い、悲しい。息が上がっていく、肩はひっきりなしに上下し続ける。次第に嘲笑しか浮かべないはずのそいつは表情を曇らせ、笑うのをやめてこちらを覗き込んだ。
(何で、そんなに苦しい?)
疑問に満ちた、酷くまっさらで純粋な声だ。あぁ、そうか。これはお前の善意なんだな、きっと。そう言おうとしたのに、泣きすぎてしゃくり上げているせいで上手く声が出ない。咽を、ひたすらに空気が通り抜ける。どうにかして、声を出そうとすればするほど、漏れる嗚咽を飲み込む。あぁ、喋らなければ、声を、出さなくては。
「たぶん、傷つけたくなかったんだよ」
情けないほどに細く荒れ切ったはずの声が、泡にならずに、確かに響いたのだ。
080901