ブラウンシュガーの、あの独特の香りが鼻腔をくすぐる。先刻、驚いてキッチンの扉を開ければ、弟がてんやわんやと調理器具らと格闘していた。その光景に、思わず目を細めたのは何らかの条件反射だったのか。だが考えが至る前に、彼はこちらを見咎め恥ずかしそうにはにかみながら、慌ててこちらを閉め出した。それは一般的に癒される光景であり、自身も例に倣って確かに心を洗われたような気分になる。けれど脳は、ああなんて無邪気なんだろうと、どこか他人事のような感想しか持たなかった。そして明らかに冷めた脳内と不釣合いなあたたかい心地で、閉じられていく扉を見ていた。リビングルームでひとり佇みながら、まだ昼下がりの明るい空を見た。今日は快晴で、弟もそれを喜んでいたように思う。どうせほとんど外には出ないだろうに、けれどあの少年はよく晴れた日を好み雨の日を嫌っているような気がしてならない。そして逆を言えば、自分は雨の日のあのしっとりとした、物鬱げで、けれどやさしい感じが好きだったが、それを言えば弟は間違いようもなく傷つくのだろうと思い言わなかった(それはこの状況に対する慣れが生み出した的確な判断だった)。なんとも些細な気遣いだ。あの不幸な弟に対しこういう気遣いを施してやる時、よく思い出すのは、かの哀れな異能持ちの子ども(見た目は青年だったけれど)のことと、それを飼っていた、あるいは育てていたあの少女。そう、よく思うのだ、あのふたりのことを。少女はこんな思いでかの少年を見つめて、愛でて、育てていたのだろうかだとか、いつも気持ちの悪いほどに輝きすぎた目をどこか冷静に他人事のように、けれど確かに愛しいと感じながら見つめていたのかとか。度を過ぎた程の信頼に、身の危険を感じたりはしたのだろうか、とそんなことを。いつぞやかの思いはゆるゆると降下し、ただ、不幸な少年の真っ直ぐなひたむきさと危うさ、総てが歪んでしまって埋め合わせることの出来ない違和感が、自分にゆっくり浸透していっている。こんな今になって、あの哀れな子どもを殺すに踏み切れなかった彼女の気持ちがわかる気がした(あるいは、自分達はよく似ているから最初からわかってはいたのかもしれないが)。正直に言えば、自分はこの思いの正体に戸惑っている。愛情、というには不遜のような、けれどそれの一種の形とも言えるような、または同情か、母性か。全てを交えて、こべりついて消えない思いはただ自身の体にゆっくりと収まり揺れている。その存在に気がつく度、妙に落ち着くようなそんな気がする。こうしている今もだ。隣から聞こえた、小さな悲鳴に自分は苦笑した。どうやら、まだまだかかるのかもしれない。そう思って、まぁたまにはいいだろうと思いながら、些か重たかった瞼を閉じる。昼下がりの明るい空は、眠気にちょうどよいあたたかさを用意してくれていて、閉じた後は3秒と持たずに眠り込んでしまう。最後の一瞬、また小さな悲鳴を聞いて、自分が同じように苦笑しようとしたことだけがわかった。



「・・・いさん、兄さん」
肩を軽く揺すぶられているようで、寝ぼけ頭ながらも何となしに今の状況を察しながら、ゆるやかに瞼を挙げる。感じたのは、しっとりとした空気と、気だるさと、部屋の暗さだ。寝ていたせいだろうか、と思いながら声の主に視線をやれば「もう、寝るなら部屋に行かなくちゃ駄目だよ」と可愛らしく頬を膨らませて言う弟がいた。けれど、なんだかあまりよく見えない。部屋が暗いせいなのだろうか、妙にだるくて、起き上がるというそれだけの動作すら行うのは酷く億劫だ。気だるげにゆっくりと立ち上がると、少しばかり心配そうで不安げな顔をしたロロがこちらを見つめている。何かあったのだろうか、と思いそして眠る前のあの状況に立ち返る。あぁ、となんとなく合点がいきながら、ゆらゆらと揺れる弟の瞳を見つめ返した。けれど、不安げなその視線は、あっという間に自身から逸れていった。正直な反応だった。
「お菓子は、できたのか?」
「その、えっと・・・なんか、失敗したかもしれないから」
「でも、俺の為に作ってくれたんだろう?せっかくなんだから、食べないと」
「あまり、おいしくないと思うんだ。だから・・・」
「大丈夫。ロロが作ってくれたんだったら、なんだっておいしいよ」
我ながら、よくもまあ言えたものだ、こんな台詞。確かに愛しいとは思うのに、冷めた脳内は冷静に彼を観察している。弟は彷徨わせていた視線をおずおずとこちらに向け、安心させるようにゆるやかに微笑んでやれば、顔に喜色を滲ませる。「わかった・・・待ってて、」言いながら、細いからだを翻して駆けていった。ビーと抑揚のない電子音がして、木製の扉が閉まる。一瞬だけ、見えた廊下も何故かとても暗いように見えた。はて、どうしたものか、と思いふり返れば、カーテンがかっちりと窓を覆っている。捲ってみれば、映っているのはにわかに曇った空と、強い雨脚。ざぁざぁと、優しく窓にうちつけられていて、あぁ通り雨かと呟いた。さっきまで、あんなに晴れていたというのに。満ちるのは、確実な不快感だ。湿度は上がるし、なんとなくだるいし、何よりずっと暗くて時間間隔が狂ってしまう。けれど、それでもこれらの物鬱げさがあっても、自分は雨はやさしいと思えた。それはいつかの昔に焼き付けられて、今も変わらない考えだ。きっと、ひたすらに気を張っていた幼いあの頃、雨はまるで薄いカーテンを引いて、ナナリーと自分を外界から遮断し、守ってくれるかのように感じていたのだろう。時間を忘れさせて、だるくて何も考えられず、まばらリズムでうちつけられる雨音だけが響いている。ただ目の前にある大事なものにだけ、全てを向けていればよい。ナナリーも、雨が好きだと言っていた。やさしいから、お母様みたいだから、と。確かに、母さんに守られている幼い頃の感覚と、雨に包んでもらえると感じた安心感は、よく似ているような気がした。ふぅ、と息を漏らすと、その音はざああぁという雨音が消し去ってしまった。そして、再び、抑揚のない電子音が、消し去られることなく遠慮なしに響いた。
「兄さん」
甘い呼びかけに「あぁ」と答えると、彼はことりと手にしていたトレーをテーブルに置く。ロロは、曖昧にこちらを見て笑う。たぶん、自信がないからなのだろうと、思ったが、もしかしたら雨を気にする兄を、気にしているのかもしれないとも思った。というより、どうやら後者のようだった。「雨、さっき降り始めたんだ。びっくりしたよ」と彼は言う。その表情は、この気候と同じく、笑っているけれど物鬱げだ。やはり、正直に反応する奴だ。なんとなく苦笑したいのを抑えながら、カーテンから手を離すと、それは窓を覆い雨音は篭ってよく聞こえなくなる。テーブルに近づきトレーを覗くと、皿が一枚、そこに控えめに3、4切れのケーキが並べられていた。
「えっと、ブラウンシュガーを使ったパウンドケーキなんだけど・・・」
「黒砂糖か?食べたことないな」
「うん、珍しいかなって。だけど、うまくふくらまなくて」
もじもじと視線を下げて、俯く。どこまでも不安な様子の弟に、やはり苦笑しながら皿の中の一切れを手にとった。一口だけ含むと、独特の香りと味がして、でも普通のパウンドケーキのような甘さもあり、ただそれらは欠片が転がり込むように口内に落ちてきた。ふんわりとした、ふくらみは確かに弟の言うようになかった。
「ど、う?」
覗き込んでくる不安げにゆれる瞳に、どう答えるかしばし迷う。
「おいしいよ。でも、確かにふくらんではいないな。しっとりしたケーキというか」
少し残念そうで、でもおいしいと言われたことは純粋に嬉しいようだった。無邪気な喜びを見せる弟の、栗色の髪に手をおき優しくなぜる。「ありがとう、ロロ」本当に、嬉しそうに笑い返してきた。うちつける雨音が、微かに響いているのがわかる。邪魔なようにも思えたが、あまりにも嬉しそうだったから、手は、頭においたままにしておいた。無邪気に喜ぶ弟を見るのは幸福で、愛しいと、確かに思う。ふっと笑った。このように愛しいなどと思うのは、ただ単なる勘違いだとしたら、此処には何が残るのだろうか。もし見放せば、彼は地に落ちるだろうか。そして、いつか幼児が少女を狂気で愛し壊そうとしたように、俺を憎んで舞い戻るのだろうか。そう考えると、怖いものだ。とても弟の頭をやさしく撫ぜている時の思考回路とは呼べないが、それでもやはり口元は笑みを象る。栗色の髪から手を降ろし、もう一口、このケーキを味わおうと思った。弟が、自分のために、つくったケーキ。なんだかおかしなフレーズだと思いながら、ふと視線を下げれば、その弟は不機嫌そうに眉根を寄せた。手を降ろしたのが、気に食わなかったのだろうか。いや、いつもはそんなことはないのだが。思考する中、ただ遠くで微かに鳴る雨音だけが、鮮明だ。だって、あの頃からずっとやさしかった、それだけが

「雨音、うるさいね」

その言葉を聞いた時、手の中にあったパウンドケーキが、ぼろぼろと崩れて落ちた。







080708