立ち込めているのは、アッサムグレイの香りだ。洗練された仕草で、まだ熱いそれが注がれてゆく。僕には、おいしい紅茶というものがどんなものかはよくわからないが、ただ兄さんがこの茶葉をよく好んで飲んでいることは知っていた。そして、兄さんは紅茶を淹れるのが滅法上手いということも。いない間、自分で淹れたりもしてみたけれど、素人目にもわかるほど味が違っていたのでとても驚いた記憶はまだ新しいものだ。(なんで、同じものを使っているのにあんなにも違ってしまうのだろう)カチャリ、と抑えられた上品な音が鳴って、目の前にふわりと可愛らしいティーカップがおかれた。兄と弟しかいないはずの此処にこんなにも愛らしく、いかにも女の子らしいティーカップが用意されているのかは、かの少女の残した痕跡に違いない。兄さんは、きっと、目が見えなくても可愛らしいものを欲しがるだろう、と思いこれを選んだのだろう。ふと、僕は眉を潜め、手の平に爪を食い込ませる。ねぇ、どうして今ここにいないはずの誰かがまるでここにいるかのように感じられてしまうの。縋るように視線を上げれば、兄の目がこちらに向けられた。すみれ色が、ほんのりと悲しそうに困ったように僕を見た。僕は思い直したように、それらを解く。たぶん無意識だった。そして、既にテーブルに置かれていた白い箱からストロベリータルトを取り出し、真っ白い皿に分ける。僕と兄さんで、だからふたつ。それらは宝石のようにきらきらと輝いていて、とても綺麗だった。
「おいしそうだな、お前が買ってきたのか?」
「うん。兄さんいちごが好きでしょう?だから、」
「あぁ好きだよ、ありがとうロロ」
びっくりするほどに優しく笑いかけられて、僕は思わず呆けて全ての動作を止めてしまう。兄はそんな僕に苦笑しながら「ほら、食べよう」と小さなフォークを渡してくれた。うん、と頷いて、それを受け取り、つやつやと光る真っ赤に熟れたそれに差し込む。兄さんも同じようにしていた。タルト生地が少し堅いから、気をつけているのに僕はガラスと金属の触れ合う音を鳴らしてしまう(兄さんはまるで綺麗に、音無く口へ運ぶのに)。口に入れたそれはとても甘くて、初めて食べたときはこんなに甘いものがこの世にあったのかと驚いたものだった。
「ん、甘くておいしい」
「本当?」
「あぁ、おいしいよ。どこのお店だ?」
「えっと、学校からバイクで10分くらいの・・・」
「あぁシャーリーか会長に教えてもらったんだろ?入りにくくなかったか、あそこ」
「うん、女の人ばっかりだった」
「だろ?俺もよく買いに行かされたから、わかるよ」
そう言って、やさしく「ロロが苦労して買ったんだから、味わはないとな」と笑った。とてもくすぐったくて、嬉しくてしょうがない。ふたくちめは、ひとくちめと同じく口の中で甘く溶けてゆく。以前は、これのおいしさがわからずこの時間になるたびに苦痛だったけれど、今はとても幸せな気分になれた。紅茶だって、こんな風に苦味のあるこれを飲むことに何の意味があるのかわからなかったけれど、今なら、そう。幸せはコップ一杯のお茶か、コーヒーか、そんなもにあると云った人の気持ちもわからなくはないような気すらした。すべてが新しくて、最初は嫌悪し恐れしか感じなかったものすべてが、今は幸せの形に見えた。違和感と薄ら寒さしか感じられなかった兄さんの笑顔を、今の僕は大好きで愛していた。可愛らしいティーカップを手にし、先ほどの言葉からすれば幸せのひとかけらであるそれを口にする。口内で残っていた甘さを、それは押し流すように香りと共に広がっていった。幸せ、だと思った。初めてだからわからないけれど、きっと、幸福とはこういうものを言うのだろうと、なんとなく僕は感じ始めていた。ふと視線を上げれば、兄さんがこちらを見てにこりと笑っていて、僕はまた幸福になったような気がした。
「おいしいか?」
「うん、おいしいよ、だって兄さんが淹れてくれたんだから」
「ばか、ケーキの方だよ」
兄さんはまた目を細めて、可笑しくてしょうがないという風に口元を抑えた。僕は恥ずかしくなって、目を伏せた。だって、と小さく口にする。僕が直前に口にしていたのは紅茶の方だったのだから、勘違いしたってしょうがない。暗にそれを感じ取ったのか、よくわからないが兄さんは口元を抑えるのをやめて、こちらを見て今度はただ優しそうに笑ってくれた。
「でも、そんなに誉めてもらえると淹れがいがあるな」
そう言って、ソーサを掴んで引き寄せ、白い指でふわりと可愛らしいティーカップを手にした。あ、ティーカップ。僕は信じられないほどに優しい手つきで持ち上げられているそれを凝視する。真っ白で、さくら色の小花が散っていて、金の縁取りで、それはやはり酷く少女趣味だった。僕の、ロケットと同じく。そして、そのティーカップがまたソーサに戻される。音は鳴らず、変わりに優しすぎるほどの手つきだけが僕の脳裏に焼きつく。兄さんの目が、ゆっくりと細められて可愛らしいそれを見た気がした。瞬間、混乱した。思い出したのは、写真で見た、僕と兄さんのこの場所のいたるところに痕跡を残す、盲目で不自由で弱々しくて、けれどふわふわと笑って兄さんの傍に寄り添うように在った、可憐な少女だ。訳がわからなくなって、僕は行儀が悪いとわかっていながら、机の端を掴んで勢いよく立ち上がる。その時、ゆびさきがガシャンと何かに当たった。熱いアッサムが手にふりかかり、目の前にあった優しげな瞳が瞠目したのだけがはっきりと見えた。
「ロロ!」
あっけなく可愛らしいあのティーカップは床に叩きつけられ、粉々になって足元に散らばる。僕は反射的にそれを除去しようと、しゃがんで欠片を手にとろうとしたけれど、絨毯に食い込んでしまっているそれはとても取りにくく指先が少しばかり切れてしまう。赤い血が滲んで、それが欠片にふりかかって、愛らしい小花柄を汚した。少し、笑みがもれた。切れた指先以外にも手が少しひりひりとするのは、熱い紅茶がかかったせいだろうか、なんてぼんやりと考えていると慌てた兄さんが「こら、ロロ!」と言っていつのまにか目の前にしゃがんでいる。兄さんは、やさしく、指先の切れた僕の右手をとり、さっと血を拭った。兄さん、血が。そう言おうとして視線を上げれば、兄さんは酷く心配そうな顔をしていた。
「いきなり触ったら駄目だろう。火傷もしているし、冷やさないと」
眉を潜めてそう言った兄さんは、僕の肩を抱いて立ち上がらせる。反して、僕は静かに目を閉じた。間違いなく、今の僕は途方もないほどに幸福だと思った。
080703