私がこの果実を始めて手に取ったのは、アリエスの離宮だった。平凡なはずのこの果実は、あの優しい人々の優しい笑顔の元にあったせいかとても艶やかに輝いて見えて、私はそれこそ宝石のようだと心が高揚したのを覚えている。私の母は優しく穏やかな人ではあったけれど、それでもやはり皇族らしくプライドも敷居も高い人であったから、どちらかと言えば覚えきれないほど長い名前をした、普通の人間ならば滅多に目に掛かることのないような食べ物を好んで口にしていた。そのせいか、私は一般の人々が好むフルーツというのを見たことがあまりなく、だからその時みたその果実はまるで異世界のもののようで、新鮮な心地がしたのだ。きっと私の瞳は好奇心で揺らいでいたのだろう、ルルーシュが少しだけ笑いを堪えるようにして「林檎というんだ」と教えてくれた。すると果実を手にしていたマリアンヌ様が「触ってみる?」と言ってたおやかに微笑んで、美しい赤に彩られた球体を、身を屈めて手渡してくれた。私は、宝石のように輝くそれを手に取る。見た目に違わぬ少しの重みと、つやつやとした硬質な手触り。鼻を近づければ、甘い蜜の香りが鼻腔に漂ってきた。
「とってもおいしそう」
そう言うと、ナナリーがすかさず「本当においしいのよ!」とにっこりと微笑む。その頬はおいしいものを前にした高揚なのか赤く火照っていて、思えばこの林檎という果実にそっくりだ。その想像がとても可笑しくて、私はナナリーの嬉しそうな顔を見ながらつい噴出してしまった。すると、その横で彼女の兄も同じように妹を見ながら優しげな笑みを零していて、あぁ彼も同じ想像をしたのだろうと思い、だから目を見合わせてまた笑ってしまう。初めはよくわからない反応にきょとん、としていたナナリーも次第に自身が笑われているのだということに気が付き、けれどその理由を察することが出来ないでいるようで、ぷうと頬を膨らませて私とルルーシュを交互に見る。少しばかりの罪悪感を感じ、もう一度ナナリーに目を向けるのだけれど、その頬はふくれているせいで先程より一層林檎らしく見えて、また堪えきれずに笑ってしまう。隣で同じようにナナリーを見た彼女の兄はは寸前のところでどうにか堪えているようではあったが、それでも口元には可笑しそうな笑みが象られていて、どうやらナナリーから見てもそれは明らかなようで。
「もうっ、ふたりともどうして笑ってるの?」
ふくれた頬に加え、口を尖らせ怒ったように眉を下げたナナリーがほんの少しだけ目に涙を溜めながら訴える。私は今度こそ本当に罪悪感を感じて「えっとね、ナナリー」としどろもどろに理由を話そうとするが、話したらそれこそ本当にナナリーが拗ねてしまうんじゃないかしら、なんて思って覚束ない言葉しか出てこない。そしてさらに目線をナナリーと合わせようとすると、やはり先程の想像のせいで笑いが零れそうになってしょうがない。これ以上、からかってはいけないわと頭ではしっかりわかっているから、どうにか堪えられてはいる。けれど過敏になってしまった彼女にはそれすら察知が出来るようで、眉はどんどんと下がっていく一方だった。
「ねぇってば、ユフィ姉さまっ。どうして?」
うんと、えっとね、と意味のない言葉ばかりが口から漏れ出てくる。どうにも困ってマリアンヌ様を見上げてみるけれど、彼女はこちらを見ながらくすくすと、可笑しそうに笑うばかりだ。「ナナリー、あのね」仕方がないので自分の力で、どうにかしてナナリーが怒らないように事の理由を伝えようと躍起になるが、どうしても彼女の機嫌を損ねないように上手く伝える術が思い浮かばないのだ。仕舞いにはこちらまで目に涙を溜めそうになってしまった頃。今まで、笑いを堪えているばかりだった彼女の兄が、それはそれは信じられないほどに優しい声で「ごめんね、ナナリー」と言って淡いはちみつ色をした髪を撫ぜた。「お兄様ってば」と批難を顕わにしつつもどこか嬉しそうな甘い声がした。
「ナナリーがほっぺたが赤くて、それが林檎にそっくりだなぁ、って。そう思ったら思わず笑ってしまっただけだよ」
ルルーシュは、視線を少しだけ、私の手の中に収まっている林檎に向けた。すると自然にナナリーの視線も、私の手の中にある彼女の好きなものに向けられた。
「・・そうなの?」
「そうだよ。別にナナリーのことをからかったわけじゃあないんだ、ごめんね」
「、ユフィ姉さまも?」
「そうだよ。ねぇ、ユフィ」
突然の呼びかけに驚きつつも、私は丁寧に頷いて「そうよ。ごめんね、ナナリー」と出せる限りの優しい声音で、彼女の兄と同じようにはちみつ色の髪を撫ぜる。隣に立つルルーシュを見ると、彼の目は細められていて、まるで眩しいものを見るかのように妹に笑いかけていて、私はなんだかとても気恥ずかしくなった。(ルルーシュって、すごい)この時、本当にそう思った。私がもし、ナナリーを怒らせないようにと様々な気遣いを駆使して彼女に事の理由を伝えたとしても、こんな風にあっという間に不機嫌を解いてしまうことなど出来なかっただろう。でも、ルルーシュは特別な何かを施すわけでもなく、あくまで正直にありのままを話して、そして魔法みたいにナナリーを笑顔にした。それはきっと、ルルーシュの優しい声と瞳がナナリーに向けられて、そしてそれらがより一層深まったことで初めて為せるものなのだろう。私は、少し羨ましいような、でもとても嬉しいような、あたたかい心地がしてなんとなく笑った。ルルーシュも、ナナリーもとても楽しそう。これで、また皆が笑顔になったのだ。すると、ふと上から抜けるような明るい声がして、見ればマリアンヌ様がにっこりと笑って、私の手の中の果実を指し示した。
「仲直りのお祝いに、林檎の一番おいしい食べ方を教えてあげるわ」
そう言って、赤く艶々と輝く球体を私の手からすっと持ち上げる。白く美しいけれど、私のお母様より幾分か角張った手が目の前を過ぎていくのを、私は好奇心を秘めながら見つめる。すると、彼女は手の中で輝くその果実を口元へやり、一瞬の逡巡も見せずに白い歯を立てて、くしゃりと齧った。
「まぁ!」
私は思わず素っ頓狂な叫びをあげてしまったけれど、ルルーシュは驚いた様子もなくただほんの少しの呆れ顔で、ナナリーは本当に楽しそうに嬉しそうに自身の母を見つめていた。私は、目をぱちくりとする。私の中で果実と言うのは、食べやすく切り取られたものを上品に口の中へ入れるのが当然の食べ方だった。そこから考えれば、目の前の今の行為は皇族としても淑女としても一般のマナーを考えたとしてかなり逸れている。そして、私にはそういうものがしっかりと染み込んでいるはずだから、今の行動に対しては些かの嫌悪感を感じなければならないはずだ。けれど不思議とそういったものはまったく浮かんでは来なかった。浮かんだのは、ひたすらの驚きと、なんておいしそうなのかしら、というそのふたつだった。瞠目した私を、林檎の丸齧りを披露したその本人が、とても幸せそうな顔をしながらおかしそうに見る。
「驚いちゃったかしら?でもね、これが一番おいしいのよ」
その明るい声に「母様ってば」とやはり少しの呆れを含んだ声で、でも嬉しそうにルルーシュは呟く。ナナリーは楽しそうに声をあげて笑っていて、けれど少し呆然とした私を見ると「ユフィ姉さま?」と気遣うように問うてきた。そして、私はそれで弾かれたように我に返り、瞬間、こみ上げてきた思いを心の底からとでもいうように叫んだ。
「私もやってみたいわ、それ!」
何秒間かの沈黙が落ち、それから数秒後その場は一気に笑い声で華やぐ。ルルーシュなんかは、本当にお腹を抱えて笑っている。私は少しむっとしたけれど、マリアンヌ様が齧りかけの、艶々と輝く林檎を再び身を屈めて私に「どうぞ」と手渡してくれたから、まるで気にならなくなった。少しどきどきしながら、私はまだ艶々と赤く彩られている面を、齧る。最初は、少し歯形が出来ただけで、近づけた瞬間に蜜が馨ったけれど味はしない。もう一度、唇で皮の瑞々しさを感じながら、同じ場所を齧る。今度は小さ目のかけらがころりと口に転がり込み、口内に皮のほんのりとした苦さと、果実の蜜の甘さがふわりと広がって、夢でも見ているのかしらと思った。
「おいしいわ!」
思わずあげた感嘆の叫びに、この離宮に住む優しい人たちは、うれしそうに笑ってくれた。