ひりひりと、頬が痛む。恐らく赤くなっているであろうそこを、「酷いなぁ」と言いながら指で撫ぜると、そもそもの原因である張本人は「だったらもっと配慮を持った発言を心掛けてください」と毅然として言い渡した。優秀な副官は、そのままきびきびとした動作で出口に向かい、無機質に滑ったドアの向こうへ消えていく。自分は、その背中を見ながら、出かかった色々な言葉を飲み込んだ。それらは恐らく彼女を怒らせるものであり、先程そもそもの発端となったあの例の少年に向けた言葉同様に酷く無機質で、抑揚が無くて、人情がない。そういうものだった。だが自分が言わなかったのは、決してそういった類のものを口にするのに抵抗があるわけではなく、だからと言って彼女を叩かれるのが嫌なわけでもなく(女性にしては痛いのだけれど、それでも一般の成人男性に叩かれるよりは全然痛くないのだ)、単に今は言う必要がないと思ったからというだけ。自分は確かに悪戯に事を大きくする人間ではあるが、同時に限度はよく知っている。存外に取ることの難しいバランスを、保たせることは自分の得意分野でもあった。
はぁ、と息をひとつ吐き、自分は座り心地の悪いソファを立ち、彼女よりはもっと緩慢な仕草でドアに近付き、近づくというそれだけで勝手にドアが滑ることへ幾分かの快感を感じながら、廊下へ出る。彼女の怒りは、いつもよりほんの少し強いような気がしたのでまだ研究室に赴くのは危険かもしれないのだけれど、自分にとっては副官の機嫌よりもずっとランスロットの調子が気になるのだ。
「まったく、物好きだよねぇ」
誰とも無く喋りかけた声は、やはり何も生まない―――と思ったのだけれど。「何がですか?」とそう聞いてきたのは声変わりしたにしては、少量の柔らかさの残る声だった。見れば、例の少年が自分に喋りかけていた。
「いやぁ、独り言だよ?」
にこりとそう言えば、不思議そうな顔をして「そうですか」と彼は言う。先程、なかなか身にくる言葉を吐いたはずなのに、少年は特に自分対する警戒心を持っている様子はなかった。否、だからこそおかしいのかもしれないと思う。この少年には、あってあたり前のものがない、ということが多すぎる。例えば、それは死への恐怖であり、自分に向けられる悪意に対する憎悪であり、心無い悪戯に対する怒りである。本当に無い訳ではないのだろう、とロイド自身は考えるが、でもだからと言ってそれは自制心が優れているせいではなく(優れてはいるのだろうが)ただ単純に感覚として鈍いだけなのだ。つまりは、どちらにしても彼は何かが欠けている。先刻、不機嫌そうな顔でミーティングルームを出て行った彼女を杞憂させる原因も彼のその危うさにある。だからこそ、自分の恐らく彼の心を琴線に触れるくらいはするであろう言葉を、彼から遠ざけようとしているのだ。だからああして時折自分を嗜める。だが、実はロイドにはその行為の意味がよくわからなかった。もちろん、精神的に不安定な者からそれをさらに増長させるようなものを遠ざけるという心理はわかるのだが、ただこの少年において、それは効果を成さないように思えるのだ。恐らく、あの副官はこう考えているのだろう―――今はまだ、悩むこともあるのだろう。その内に、大人になれば自分なりの答えとは言わずとも方向性くらいはきっと見つかって、落ち着くだろう、と。ただ自分からすれば、彼の危うさはただ単なる誰もが経験するような若さ故のものだとは思えなかった。明らかに、決定的な何かがあって、それによって心理が潰れ、屈折して、少年自身が捻じ曲がってしまったように見えるのだ。そして、もし本当にそうであるなら。恐らく、再び決定的な何かが与えられないと、彼は一生欠けたままだ。突出した能力だけが確かにあって、けれど中身は危ういまま、足りない何かへの違和感を引き摺ることとなる。ロイドは少しだけ含み笑いをした。ランスロットはあんなに素晴らしいのに、中にいる人間はこんなにも欠陥だらけの危うい人間だとは。
「あの・・・ロイドさん?」
見れば、少年は先程と同様に不思議そうな顔を浮かべてこちらを見たまま動いていなかった。「なんだい?」と問うと、少し言いにくそうに身を捩る。あの、と呟かれた後、一瞬の間があった。
「ほっぺた、どうしたんですか?」
戸惑いがちに問われたそれを、何秒間か自分は理解が出来なかった。あぁ、そうか、先刻のミーティングルームでの彼女の渾身の一撃は、どうやら未だ尾を引いているらしかった。思い出すと、どうしてかあのひりひりとした痛みも再発してくるような気がして、すっと顔を歪める。
「痛いんですか?」
歪めた表情を素直にそう受け取ったらしい彼に、「君のせいなんだよね、これ」と歪めたままの顔で吐き捨てるように言うと、彼は馬鹿みたいに間抜た顔をこちらに晒した。はぁ、と呆けた返事が転がり落ちるように辺りに散る。ばらばらと崩れたそれは、戻ることはなく再び沈黙、そして口を開きふざけたような声を出したのは自分だった。
「君がついつい茶々を入れたくなるようなこと言うからさぁ」
再び聞こえたのは、はぁ、と呆けた返事。どうやら話をしっかりと理解出来ていないらしく、けれどまったくわからないという訳ではないらしい。恐らく茶々を入れたくなるようなことというのに思い当たりはあるのだろうが、何故それによって殴られる羽目になるのかがわからないのだ。思えばこの少年は、一度しかあの優しい副官の意外な一面を見ていない。自分は大仰に溜息を吐くと、少年は少しだけ後ずさった。そして、少しの間自分の顔を眺めた後、思いついたように素っ頓狂な声をあげた。
「じゃあ、ロイドさんが、茶々を入れなければいいんじゃないですか?」
「―――じゃあ君が茶々を入れたくなるようなことを言わなければいいんじゃないのぉ?」
さっとした切り替えしに、少年は一瞬瞠目する。その姿は、どこか面白い。
「でも、やめられないんだよねぇ。きみ」
いやらしく口を歪めて笑えば、彼は「―――そうです」と頷いた。非常に素直な返答で、本心からの言葉だということが手に取るようにわかる。自分はさらに口の端を上げた。少年は、後ず去らなかった。
「だったら僕も、やめられないなぁ」
そう言って、さっさと身を翻してしまったのは、これ以上の応酬が続くのを自分がよしとしなかったからだ。返答させる隙を与えない為、無機質な廊下をいつものペースで跳ねるように去る。少年は、恐らく先程と同じような間の抜けた顔をして、突っ立っているのだろう。それは、大事な大事なランスロットの中身だ。けれどそれはとても欠けていて、不透明で、そのくせに妙に素直で従順でとんでもなく捻じ曲がっている。そういう、異常なまでに性質の悪いものだ。







080305