「人が本当に辛いのは、何かを遂げられなかった時じゃない」
ある意味で遂げられないというのは、充足感という意味での幸せで言うならそれは酷く幸せであると、気がつくのはもっとずっと後のことになる。
「思いが・・・自分が、裂けてしまった、とき」
どうして人はこんなにも自身を厭うのに、同時に正反対のものとの共存を厭うのか、時々不思議に思う。裂けてしまったのではないことは知っている。裂いたのだ、自分が。受け入れることの出来ない、自分の中にある何をしたところで忘れることも洗い流すことも出来ない燃え上がるような火種が、それを絶対に許さない。だから裂ける。あまりにもあっさりと。
「もうどうしようもないくらい、苦しいんだよ」
吐いてしまいそうだと思う。裂かれたところから、血は一滴たりとも出ないからこそ。
「ねぇ、これはゼロのせいなのかな?」
瞬間、ほとんど独白のようなその言葉たちに律儀に耳を傾けていた旧友に、目を向けた。彼は少し皮肉っぽい顔をした。いつだったか、こんな顔を、僕は見たような気がする。よくよく見ればその表情には、幾分かの悲しみが含まれている。傷ついたのだろうか、今の言葉に。でも、でも。僕にはもう今の僕を認めてくれた人がいるから、だから、前よりもっとゼロを認めることは出来なかった。認めたくなくなっていた。いや、前からずっとそうだったのだ。ただ、心が揺るがずにそう言えるようになったというだけだ。僕は、彼を認めたくない。ああして、事態を掻き回すだけ掻き回して、含みのある物言いをして、そしてそれらで何がしかを壊していく彼を。僕は、真っ直ぐな目で旧友を見た。美しいすみれ色が燃えているように見えたのは、どうしてなのだろうか。彼も、心の奥底に洗い流すことの出来ない何かを仕舞いこんでいるからなのか。どうしてか、視線を逸らしたくなったのは、彼の強さがその目にありありと現れていたのだからなのだろう。彼は情が深いからこそ愛も深く、そして怒りも深い。でも、僕ももう何かを譲ることは出来なかったから、彼を真っ向から見つづけた。ふと、すみれ色が緩んで、形のよい唇が何かを紡いだ。
「あぁお前は、そうやって耳障りの悪いことばかりを言うから」
それは否定ととることは絶対に出来ない言葉だが、肯定ととるには些か含みがあり過ぎて理解が出来なかった。苛立ちがどことなく込み上げたのは、彼が態度を崩さなかったせいだろう。お互いに譲ることが出来ないのは同じだというのに、何とも身勝手であることはわかる。でもたぶん、苛立ちを感じていることもお互いなのだろうから、やはり両成敗だ。僕は、少し目を伏せた。前にあったすみれ色の視線は、たぶん手元の本に落とされたのだろう。その仕草は昔と変わりが無い―――考えれば、彼の仕草からしても、やはりこの時の彼の言葉は否定でも肯定でもなかったのだろう。正確に言えば、否定の意味はまったくなく、肯定の意味が少しだけ含まれていた。そもそもこの世に起こる事象というのは全て何のせいでもなく、何のせいでもあるものだ。単純明快な答えというのは、社会的な制裁を下す為に社会的に判断されるのであって、それは個々の考えを大小はあれど少なからず踏み潰している。根本的な制裁も責任も、幾重にも積み重なった事象の中でより一層に複雑な網状となり、読み解くことなど出来やしない。僕はそのことに、薄々気付いてはいたが、それでもより単純な答えを導き出したかった。犠牲を出したくなかったから、殺すのは一人がよかったから。けれど彼は、たぶんそれに気付き、受け入れ、だからプロパガンダとして単純な答えを欲していた。つまり、彼は理解していたのだ、責任の正確な在り処はわからないということも、わかってもそれは膨大過ぎて処理など出来ないことも。僕には、まだ理解できなかったけれど。
(そうだ、彼は、平和や愛の符号じゃないんだ)
僕が理解できたのはこれぐらいだった。彼は符号じゃなく、明確な意思を持った今を生きる人間だと、受け入れられただけだった。でも、それはたぶん、彼自身も同じだったのだ。全幅の信頼は、危ういどころではない。それは過去の自分に向けられているものであって、もう何所にも存在してなどいなかった。あるとすれば、それは僕の過去の面影の元だ。僕が、最も厭う場所だ。それでも、彼がただ単に全幅の信頼を寄せているだけであるなら(例えそれが認めたくない自分だったとして)ばよかったのにと。彼が、ただの符号なら。僕は僕自身を裂いてしまうことなどなかったのに。
080703
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