まるで穏やかであるかのような錯覚だ。いつだってざらついた手触りであることが鬱陶しいのだけれど、けれど静かであることは確か。先刻見た鏡に映った自分の顔も、大して具合が悪そうなわけでもなくとても調子が良さそうなわけでもなかった。隣でつまらなそうに座っているアレンも同じだ、特に可もなく不可もなくといった表情。監視されていたところで、彼にとって問題となるのは巨大な食欲ともっと別のものたちだ。それらは言葉で表せば陳腐であり、そしてそんなちゃちにすら思える宿命を背負うのは自分も同じであると気が付いた。しかし今は穏やかであるような錯覚に酔いしれている、とそこまで考えて暇な時に周囲の人間の粗探しを始めるのは悪い癖であることにも気が付き、思考を遮断する。
「あー俺、コーヒー飲みたい」
頭の中など咎められるわけがないのに、何故か居心地が悪くなりそう言いながら全身を伸ばす。猫のような気まぐれさに毒気を抜かれたのか、些か嫌そうな表情を浮かべたアレンも厳しい言葉は言わなかった。「リナリーはいませんよ」と、呆れたような呟きが落ちる。
「じゃあよろしく」
「しょうがないですね、」
思ったよりも素直に彼はすっと立ち上がり(こういう仕草からは育ちの良さを感じるのに、食事をする時は波乱万丈の彼の人生そのものの立ち振る舞いをする)、少しばかり胡散臭いような笑みを向けながら去っていたので、自分の気まぐれと過剰な意識を後悔した。コーヒーメーカーはすぐそこにある。真っ黒い向けられた背中をぼんやりと見つめながら、息を吐く。ごろりと寝返って、仰向けになりそれでもまだ彼の背中を眺めようと、首を反らしたところで視線を感じた。監察官だと言うその男は、いつもより一層訝しげな目線をこちらに向けていた。
「何?」
少しだけ、不快だと思った。
「いえ、何でも」
信じられないほどにすらりと伸びた背筋と、無機質な声は響くことなく途切れた。些か不機嫌そうな表情をしている彼ではあるが、怒っているわけではないのだと気が付いたのは数日前だ。僅かに疑問を胸に残しながら、しかしどうすることも出来ないのでまた同じように首を反らしてアレンの背中を追った。透明の器具から、マグカップへ黒い液体が注がれている。少しだけ、魔女が薬を調合する御伽噺のようだと思ったけれど、余りにもメルヘンが過ぎて笑えなかった。アレンはふたつのマグカップを手にし、振り返った瞬間少しだけ眉を下げた。
(俺の姿勢か?)
たぶん、そうだ。もしかしたら、あの少年の訝しげな視線の意味もそれだったのかも知れない。
「痛くないんですか、それ」
いつのまにかすぐ傍まで来ていた彼に鼻先に熱いマグカップの底を当てられて、ものすごく熱くてわざとらしい悲鳴を上げた。
「あつーい、」
眼前を影がさっと横切り、すぐに彼がどかしてくれたのだとわかった。ゆっくりと起き上がり、手にしているそれを受け取る。手の平が熱い。僅かに啜った液体も同じようにとても熱くて、味などわからなかったけれど香ばしさとそれに見合う安っぽさが伝わった。いつもの味だ、此処はいつもどおりの場所だ。アレンも同じように僅かに啜って、そして肩を竦めた。それが熱い過ぎる、というサインなのか、それとも単にまずいと言っているだけなのかはよくわからない。
「リンクも飲みます?」
マグカップはふたつしかなかったので、彼は当然のように自分の分を平然と佇む少年に差し出したが彼は断った。甘いものが好きで、苦いものは嫌いなのだろうか。断って、そしてまた些か不機嫌そうな表情へ戻し視線を定めるその寸前、自分を見た。また不快だ、と僅かに思って苛立ちを隠しながら「何か用かー?」とおちゃらけたように問う。我ながら、苦し紛れだとそう思いながら。
「いえ、別に。ただ」
言葉を切ったところで、彼は不機嫌を解いて酷く純朴な表情を覗かせた。
「ただ?」
「ふたりは、友達なんですか?」
物凄く驚いて、何も言えずに息を呑んだ。少年の眉はいつのまにかまた寄せられていて、何を考えているのかがよくわからない。息を呑んで、そして部屋に訪れた静寂はどこか痛々しいものだった。誤魔化すようにコーヒーを啜り、受け答えをしようとした時、アレンが差し出していた手を引っ込めて、酷く柔らかい声音で言った。
「そうですよ、ねぇラビ」
向けてくれた笑顔に、全ての痛々しさが引き上げられたような気がした。「だよなー」と、同意の言葉を述べて少年を見ればやはり何を考えているのか分からない顔をしていて、咄嗟に見ない振りをした。たぶん、とても傷ついていたのだろう。そして怖いような気もした、だとかなんて弱々しいことを口にしているのだ。でも、あの少年は何故、そんなことを言う必要があったのだろう。理由など、そんなものは聞ける人ではなかったし聞く勇気もない。ひゅるひゅると急激に心細くなって、アレンの顔をもう一度見た。
「どうかしたんですか?」
生返事を、することは得意だった。いつだってそれで誤魔化してきて、それが悪い癖であることに気が付いて、慌てて明るい声を出した(それだって生返事と大差がない芸当だ)。無性に寂しさに襲われながら、彼の顔から目を逸らすことが酷く怖かった。次の瞬間、もし、彼が少年のように眉を寄せていたら。
(あぁ、わかった)
これも、悪い癖だ。寂しくなるとすぐに人の顔を見て、そこに何かを探し始める。粗探しよりもずっと性質の悪い癖なのだと思ったし、していること自体はもしかしたら粗探しと変わりない。自分と同じ面影を探し、笑顔を見つければその裏にある孤独を求めようとした。きっとあるはずだなんて、最低なのかも知れない。それでも繋がり方など知らない自分は、やめることは出来ないのだろう。自分には、仲間も友達も、それは何を関係の中に介在させる間柄であるのかということが、今でもよくわからない。
090408
ラビの人当たりのよさは人見知りの裏返しだろうなぁという妄想の元