ふと、伏し目がちに自分を見る視線に気が付いたのだ。気遣うような、案ずるような雰囲気を感じ取り、ふと顔を上げれば一番最初に入ってきたのは見るも無残な書類地獄。そこから緩々と視線を上げていけば、予想外の位置に顔があり、その顔もまた予想外な人物のものだった。その人物は、年齢には不釣合いな少し含んだような笑みをした後に、幼児のような柔和な笑みを浮かべた。少しだけ、普段は年齢よりも上の印象を受けるその顔が、少しだけ幼く見えた。彼は、その幼い表情を崩すと、悪戯好きの少年のような声色を薄い唇の間から漏らした。
「リナリーじゃなくて残念でしたね」
面を食らう。どうやら、起き抜けだったためか酷く驚いたような表情をしてしまっていたらしかった。曖昧に笑う。特に気まずいとかそういうことはまったくなかったのだが、恐らくこれは条件反射というやつなのだろう。目に入れても痛くないほどに溺愛している妹が、とても気遣っている少年が湯気立つマグカップを両手に手にして、目の前に立っていた。ふと束の間、その内の片方の手が揺れ動揺したのだが、それは何事もなかったかのようにゆったりとした動作で下に落とされ、ほとんど音もなく大きな目玉のような木目に覆い被さるように机に着地した。洗練されたような動作にも見受けられたが、目の前の少年はいい暮らしとは程遠い生活を送ってきたであろう人物であり、この美しい動作は元来の穏やかな気質のせいなのだろうかとふと考える。「リーバーさんに頼まれました」とにこりと笑った彼に「ありがとう」と告げ、口につけたコーヒーは恐らく科学班の誰かが淹れたものなのだろう。その証拠に、嫌味なくらいに苦味が強く、はっきり言ってまずい。ふと息を漏らし、苦笑した。今此処にはいない、自分が目に入れても痛くないほどに溺愛している妹の淹れたコーヒーは、とてもおいしいのだ。どうやらそのことを知っているらしい少年は、こちらの苦笑を意図通り受け取ったらしく、自身の持っているマグカップを口につけてから呆れたように「苦すぎますよね」と笑った。
「熱湯をいきなり注ぎすぎるといけないんだそうです」
「へぇ、それはうちのお姫様が言ってたの?」
「えぇはい。僕は気にしたことないんですけど」
そう言ってまた笑う。うちのお姫様とはもちろん、妹のことだった。北米の方へ任務として今朝方、慌しそうに出発してしまった。そういえば、急過ぎてろくに任務の説明をすることも出来ずに資料だけを渡してしまった。あんなに足を出して寒くはないだろうかとか、コートを着れば大丈夫かだとか、そんなことをとりとめもなく瞬間的に考える。考えて、そんなことよりもまずは命の心配をしなくてはいけないと思い、けれどそんな想像は頭を痛くさせるだけで、咄嗟に追いやってしまう。そうして考えるのは、やはり風邪はひいていないだろうかとか、団服は丈夫だが以外に薄くて寒いのだとかそういうことばかりだった。
「北米って、寒そうですよね」
ふと、こちらを見ながら年齢には不釣合いな笑みで少年が笑っていた。思考を読まれたらしく、恥ずかしいとはあまり思わなかったのだが(たぶん普段から露見しているせいなのだろうが)少しだけ居所が悪くなり「そうだね」とまた苦笑した。今度はまずいコーヒーを淹れた科学班の誰かではなく、自分に。
「アクマが関連していそうな事件がね、いくつか起きていて」
「そうですか」
「どれも大したことはなさそうなんだけどね」
念のためだよ、と曖昧に笑うと、少年はまた「そうですか」と言って柔和な笑みを浮かべた。それらはたぶん今自分が造っている笑みと似て、曖昧なのだろうと思う。本当はそんなに軽い事件な訳ではなかったのだが、つい口に出そうとすると誤魔化してしまうのは恐いからなのか、そうなることを願っているからなのか、最早よくわからなかった。心の中で深い溜息を吐くと、少年は間を計ったかのように「リナリーはかっこいいから大丈夫ですよ」と言った。それには、こちらに対する慰めというよりは、深い信頼があったような気がした。そして、たぶん曖昧に笑った。前々から曖昧にしか笑わない少年ではあったが、判別はなかなか難しいものだ。けれど今の笑みは確実に曖昧なものだった。ただ、今のは彼が曖昧に笑ったわけではなく、自身の目に曖昧に映るだけなのだということは、よくわかっているつもりだ。
「そうだといいね」
「そうですよ」
少年は笑ったが、やはりそれは自分の目には曖昧に映る。いや、曖昧というより、眩しく。そして自分はその眩しさが好きで、けれどそれを眩しいと思う自分を叱咤したくてしょうがないのだ。マグカップを握る左手は、今は戦闘用の手袋に誂えられておりよく見えないが、延びる指先は普通の少年のものとは程遠く赤い。それは、戦う為の兵器だ。自分は持っていない、決して持つことが出来ないもの。深い溝が其処にはあるような気がする。少年は、その兵器で握るマグカップを口元に寄せて、まずいコーヒーを胃へ流し込むように飲み干す。白い咽が、頼りなさそうに上下し、「やっぱりまずい」と残念そうに呟き、こちらに笑顔を向けた。自分も笑った。
「じゃあ、いってきます」
また音もなく、その左手が握っていたマグカップが机の木目を覆い隠した。翻した少年の背中に「いってらっしゃい」と言うと、首だけこちらに降り返り、照れくさそうに笑う年相応の表情が窺い知れた。小さくはない、けれど広くはない背中が、しっかりとした足取りで確実に遠ざかっていく。その姿は整然としていて、恐らく表情は精悍なもので、つまり全体としてとても美しいのだろう。ふと、外は寒くないだろうかとか、そんなことを考え、意味がないなと首を振った。いつも同じだ。彼らは、美しく去っていく。同じく妹も、美しく去ってしまう。至極幸せそうな眩しい笑みを浮かべて、こちらの表情に呆れたように肩を落としながら、確かな足取りで、美しい姿で、忽然と消えてしまうのだ。
080216
残留