卑屈そうなわけではなく、ただ完璧なる笑みとしてどこか欠けているそれをよく口に浮かべる人間だった。何故それが完璧でないのか、なんて追求する気は自分には毛頭なく、そもそも色んな意味で判りやす過ぎる疑問であり口に出すことは愚問。言ってしまえば彼は笑ってなどいないということになる。そういう人間の表情の動きというのは、見ていて酷く腹の立つものが多い。殴り倒したくなる衝動が、本気であり冗談ではなくなっていくくらいに腹が立つ。言いたい事があるならばはっきり言ってしまえばいいのだ、と叫び出したくなるほどだ。自分はきっと、馬鹿にされている。たぶん他の誰もが皆、自分と同じようにあいつに馬鹿にされている。それ以外に有り得ない事であり、そもそもその態度自体が自分以外の人間を馬鹿にしているようにしか見えない。しかもわかりにくくだ。一瞬の間に頭に血が上り、けれど感じた確かな静寂にその血は下がった。あまりにも静か過ぎる此処は、食器の擦れ合う音だけが妙に耳介に入り込んできた。そうだ、静か過ぎる。けれど差し込むはずの朝光は灰色の暗雲に遮られているようで、夕方過ぎとでも勘違いしてしまいそうなほどにどんよりと暗い。カチャンと器を丁寧に置く際の微量な音でさえ、此処では誰もが漏らさず聞き取っているように思える。静かな呼吸の音さえもだ。そうだ、なるべく静かに呼吸をしていなければ。どこかに隠れ潜む者のような妙な圧力を感じながら、ふと前を見て、その圧力が増したのをさらに感じた。あぁそうだ、先程こいつを見て頭に血が上ったばかりではないか。
「なぁ、もう食わねぇの、残ってるっしょ」
「お前がさっさと消えてくれれば食う気にもなるんだけどな」
「そりゃあ残念さ」
そう言うと彼は手元のマグカップの持ち手を指先に弄りながら落ち着きのなさそうな雰囲気で、落ち着きのある顔をした。コーヒーのおかわりへ行くならいけばいいし、ただ単に手持ち無沙汰ならさっさと此処から去ればいいというのに。やはり馬鹿にされていると思いながら、先程の会話が、この仄暗い空間で食器の擦れ合う音以上に妙に浮いていて、返答したことを少し後悔した。たぶん返答せずとも、彼の質問だけ浮くことになるだけで大した変わりは無いのだろうが。途端に溜息を漏らしたくなったが、当然それすらも憚られることとなり行き場を失った。静寂で尚且つ程よい冷気のある過ごしやすい場所のはずなのに、ここまで規制させられる気分にさせるのは何故なのだろう。不釣合いな暗さから生じる圧力なのだろうか。あぁだったらこんな天気はよして欲しいと、天気に対して悪態を吐く非常に馬頭らしい経験をした。普段は雨だろうが嵐だろうが晴れていようがどうだっていいのだ。今日だけは、爽やかさを伴っているようでどこか纏わりつくような空気が自身を拘束している。気持ちが悪いというのはこういうことか。どうしても箸がこれ以上進む気がせず、仕方なく微妙にささくれた嫌な割り箸を揃えた。これ以上、ここで息苦しさに縛れられるくらいなら残した方がまだいいとさえ思えるのだ。ふと見ると、陶器に入った汁が意味もなく揺れていて、それを意識なく左手で強く握っていたということにようやく気づかされた。一体、なんだと言うのだ。前を見れば、落ち着きなさそうな様子のそいつが、同じように息苦しそうにしていた。よく見ればそのカップの中には半分程度のコーヒーが残っていたのだ。
「お前、飲まねェのかそれ」
「いや、わかんないけど」
「人のことだけどうとか言いやがって」
どこか上の空で答えるそいつを鼻で笑うように言ってやる。反応はあの何かが欠けたような笑みと笑い声が数秒、のみ。どれだけ今の彼に落ち着きが無いのかということを露呈するような秒数だ。いつものあの欠けた笑みは、もっと間合いというものを心掛けていて、少なくとも会話を断裂させたりはしなかった。ただ、この理解し難いけれど確かな静寂の中の息苦しさの元で、会話も何も無いような気もするにはするが。前の人物には変わらずに落ち着きがなく、やはり指先で持ち手を弄るばかりだ。息は吐かないように注意しながら、椅子を引くその音すらも異常だ。度合いが過ぎて最早穏やかさなど一片たりとも感じさせないような静寂の中で独りで立ち、少しの蕎麦が蒸篭の上に残るお盆をカウンターまで運ぶ。普段は騒がしい調理場の人間達が、気分の悪そうな顔を俯かせながら食器を片付けていた。纏わりつく空気は、誰もを拘束している。身体を引き摺るようにしてお盆を返却口に置き、振り向くと冷たくなった(恐らくはだが)コーヒーを手にしたそいつが、沈痛な面持ちで突っ立っていた。また欠けたような笑い声を出しそうな装い。とにかくこの静か過ぎる場所を出よう咄嗟に身を翻したのと、そいつが俺を呼び止めたのは同時だ。
「お前は息苦しくねぇの、此処」
今度こそ、ハァとまたこの静寂で仄暗い場所では浮きすぎてしまう息を確実に吐いてしまった。実際には吐いたかはわからないけれど、確実にそれほどの疲労を、肩に感じた。