不思議な匂いがしたので、全神経を集中させてそれを判別しようとした。フルーツの甘酸っぱい香りに思えるのは、僕のお腹が空っぽだからなのだろうか。そんなことを思いながらその不思議な匂いの大元である本人に尋ねてみる。彼は「そんな匂いはしない」、とそう言っただけだった。嘘だ、と思いながらそれ以上喰いついてもしょうがないことはわかっているので「そうですか」とだけ言った。もしかしたら、鈍くて本当に気が付いていないだけかもしれないし。そう思って目の前の温くなったコーヒーをのんだ。ブラックだからとても苦くて、なのにどこからか漂ってくる甘酸っぱい香りのせいで、何を飲んでいるのか分からなくなる。やっぱり、なんだろうこの匂いは。思った以上に強く香っているので、流石に気が付かない彼はおかしいだろうと思った。やはり嘘か。
だからまた問うてみた。「ねぇ、なんなんですかこの匂い?」と。けれど帰ってくるのは「だから、匂いなんてしてない」と、たったそれだけだった。そしてそれは、やはり嘘だった。そう思った。そんなに気がついて欲しくないのなら、てきとうな事を言っててきとうにかわしてしまえばいいのに。甘酸っぱい香りは、彼の言葉とは裏腹に辺りを侵食し始める。まるで相反する意志を持って、匂いが動いているのかのようだった。おかしなことだ、望んだ方に動いてはくれない。神田はやはり嘘をついているようで、居心地が悪くなったのか睨みを効かせながらこの場を去ろうとしていた。逃亡者だ、ぽつりと呟いただけであってそれは神田や、その他周囲にいる誰かに聞こえるわけでもなくそれはある意味で幸いなことだったが不幸でもあった。彼が聞いていたなら、喋ることも容易かっただろう。本当におかしなことだというのは自覚してはいるが。そうして此処を去ろうとする背中は、何の言葉も受け付けない様子を作り出していた。だからこそ話し掛けやすかったのだと言えば、それもまたおかしなことだが事実である。

「ここにあるとわかっているものを、否定するのは悪い癖だと思いますよ」
「なんの話だ」


それだけ言って、彼はついに此処を去ってしまった。僕は「わかっいるくせに」と呟くだけ。たぶんこれも彼にも周囲の誰にも聞こえてはいなかっただろう。でもたぶん、彼はわかっていた。ようは「嘘が下手だ」と自分は言いたかったのだ。なんて回りくどいことか知れないが、それは自分の精一杯だった。嘘をついていることはわかっても、それについて彼は決して何も言わずにつき通す。そうして自分は「それは嘘だ」と回りくどく言うことは出来ても言及することなど出来はしないのだ。そんなこと。苛々したのかなんだかよくわからず、ただ混乱して親指の爪を噛んだ。既に短かったその爪は、自分が噛んだことでさらに短くなり、皮膚との隙間からはうっすらと血が流れ出る。どれだけ強く噛んだのだろう、自分でもよくわからない。


「だって、僕は」

これがくだらない嫉妬心だと言うならなんとでも言ってしまえばいいと思った。でも嫉妬心がなんだというのだろう。それはある意味、当然の感情で人間である証みたいなものだ。理想主義者がこんなことを思うのはまたおかしなことかもしれないが。ただどんなに綺麗好きな人だって、汚い部分を持っているのだから間違いではない。そもそも間違え、ってなんなのだろう。正しいの反対だろうか?未だに残る甘酸っぱい香りを鬱陶しく思いながら、自分の親指からどくどくと流れ出る赤い液体を見つめた。舐めてみた。鉄の味がするだけで、そこにはなんの答えも問いも入ってはいなかった。







080216
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