死ぬことは、爽快なのだろうかと考えたことがあった。けれどあの彼がいくら苦しそうに生きているからといって、イコールそれに繋がるわけではないのだろう。そんなに単純なことではない。ならば、毎夜死が訪れ皮のはがれゆく感覚とは如何なものだろうか。きっと、爽快とは程遠いのだろう。しかしわかることはそれだけだったので、思い付きのように左の手の甲に右手を伸ばす。(毎夜、はがれる)気が狂ったのかと思うほどに淡々と、強い力でそこをえぐった。血が噴出し、鋭い痛みが体中を駆け巡る。痛い、痛い、痛い。けれどそれだけだった。そこには全ての皮がはがれゆく苦しみも、喪失感も存在してはいない。ただの怪我だ、訳が違っていた。
「あら、痛そうですね」
鱗に包まれた手が下から伸びてきて、ぶらりと垂れ下がった傷ついた手に撫でるように触れた。そして、血を掬い取る。以前よりずっと表情は重苦しくなり、声も重厚さを増すようになった。一言で言えば具合が悪そうなのだ。けれどそこにおちゃらけた口調が乗り込むから、一層気持ち悪さが増す。
「君、いい加減その口調やめたら」
「あなたも、とてもぶっきらぼうに聞こえますよ」
苦しげに目を細めるだけで、笑みを浮かべることもない。或いはそれが今の彼の微笑みなのかは、梵天にはよくわからなかった。ただもう二度と、彼は何の悩みのない笑みは浮かべられないのだろうということだけはわかっていた。見下げる彼は、飽きもせず天に掛かった網目に目線を据えている。同じように見上げてみて、そして彼にも同じものが見えているのだということを考えて少しだけ手の甲の痛みが和らいだ気がした。
「今日は、アヤカシに9人の人が殺されている」「馬鹿違うよ、10人だ」
「あぁ本当ですね」
相変わらず頭が空っぽだ、とそう言えば彼は特に怒ることもなく曖昧に笑みを零した。今度こそ、はっきりと彼が笑おうとしていることがわかった。一旦目を伏せて、そして彼はまたつまらないものだけが映る空を見上げる。此処は網目の中、閉じられた世界、訪れるのは虚無感だ。全ての行く先が記された其処に、自分が辿るべき糸を見た。彼の、辿るべき糸も同様だ。何度か読み解いたけれど、それを真に理解することはない。ただこうやって死んでいくのだろうと、そういう脱力だけがじわじわと胸の内に広がる。それに囚われる、その繰り返し。「あぁ、今またひとり死んだ人がいる」という淡々とした呟きの後、ぷつりと一筋の光が途切れた。
「とりあえず、読めるようにはなったんだね。馬鹿なのに」
「馬鹿は余計ですよ、鶸」
嫌味な名だ。反射はいつだって身に残っているから、当然のように無力であることの不快感が体を駆け巡り蹴って地面へ降り立った。やわらかな土の上に着地し鋭く禍々しい視線で彼を射ると、やはり苦しげに笑っている。(はがれている、)ぼろぼろの鱗の肌には、懐かしさは込み上げなかった。死に損なった誰かが、ただ苦しそうに立っている。
「聞きたいことがあるんです」
鱗で覆われた顔の中に、確かにひとつの表情が存在している。
「身を燻るこの恨みも、或いは天網の中に組み込まれているんでしょうか?」
確かに存在する表情の中に、歪んだ色をした瞳があって、それが燃えるように揺れていた。ふと手の甲の痛みが蘇り、そっと抑えた。
「やっぱり馬鹿じゃないの、天がそんなに親切なわけがない。気持ちよく死ねるようにだなんて、そこまで気を回すわけがない」
「そうですか」
瞳は強さと苦しさを湛えている。彼には、火種があった。けれどいくら進もうと、そう決意しようと、必ず疲れてしまうことを自分は知っている。あてどない喪失感はいずれ諦観に姿を変えることを知っている。とつとつと、ただひたすら起こるべきことが起き、死ぬべきものが死に、生きるべきものが生きる。その繰り返しの中に、何ひとつ介在してはいない。全ては気まぐれに設定された薄闇の中へ同化して消えていく。この傷の痛みも、皮の剥げ落ちる苦しみも、死ねないことの不快感も、この重く肩に圧し掛かった疲れも。またひとつ、光の筋が途切れて彼が「あ、」と声を上げた。誰かが死ぬ、誰かが生きる。全ては決定されたままに。なんと愚かしい事実なのか、腹立たしいことだ。けれど自分の道筋を見るたび、光の糸が途切れるたび、それを腹立たしいと思うことすら忘れてしまいそうだった。皮の剥げ落ちてゆく感覚もわからないまま、自分は着実に設定された道筋を辿っていくのだろう。頭がおかしくなりそうで、そしてふと、苦しげに同じものを見上げる彼に安心する。
(悪趣味な、傷の舐めあい)
それとは気付かぬように、蓋をしながら言葉を交わす。頭が疲れでおかしくなりそうだから。変わらず苦しげに、重い肩を落とした彼は抑えられた自分の手の甲に取り上げるように、胸の前に掲げた。
「じゃあ、これも天網にはないんですね」
そこからは、どくどくと波打つ血が流れ出している。あろうとなかろうと、天との意思の間に介在することのない痛みや疲れ。皮の剥げ落ちる苦しみ。それらが目の前にあると知るたびに、腹立たしさが蘇り、そして挑むように天網を見て項垂れる。だというのに「だからどうしたの」と抑揚なく呟けば、彼は些か不適なように、けれど確実に疲れを引き摺りながらまた笑う。歪んだ笑みだ、気持ち悪いくらいに。
「あなたと同じですよ。安心するんです、鶸」
きっとこれもまた、薄闇に溶けて消えるのだろう。







090329