口に含めば、それは少しばかりの苦味を残して消えていった。ふぅと息を吐き、カタリと音を鳴らして茶碗を置けば「おっさんくさいなぁ」と隣の少年は言う。酷い、と言えばそいつは少し呆れたような目で俺をみて、そして三色団子の一番上、ほのかなさくら色をしたそれを噛み千切るように食べた。行儀が悪いなあと一瞬思いはしたが、彼はたぶん食べるのは初めてなのだろう、口に含んだ瞬間に少しばかり幸せそうな顔をしたせいでその思いは消え去った。「うまい」と呟くように言うので、思わず笑う。どうやら不本意だったようで、恥ずかしそうに目を逸らされてしまったけれど。「気に入った?」からかうように言えば「うるさい。へらへら笑いやがって」と文句をつけられた。明らかに、気に入ったという顔したしていないにも関わらず。そしてまたほんの少し幸せそうな顔をしながら次は真っ白いそれを食べる。こんな顔を見ていたら、また連れてきてやろうと思うのは自然なことなのだろう。笑えばきっと彼は答えないので、うまいよねぇ団子、と独り言のように言ってみる。少しの間があって、あぁうまい、と今度は妙に素直な声が聞こえて、なんだかおかしくなった。そしてふっと笑い目を細めていたその瞬間に、彼は開き直ったように最後の若草色をあっという間に食べてしまっていた。串を皿に置きながら、残りの一本をもの欲しそうな目で見つめる彼は小さい子どもみたいだった(元々子どもっぽい言動の多い少年だったけれど)。こちらの視線に気がついたのか、やはり罰が悪そうにして手持ち無沙汰に茶碗に手を伸ばす。それでも俺は視線を逸らさなかったから、少年はまた居心地が悪そうに眉を顰めた。存外に、見るな、と言っているのだろう。しばしの間があり、呆めたように顰められていた眉がゆっくりと解かれて、彼は口を開いた。
「・・・こんなところでのんびりしてていいのか、お前」
瞬間、思わず気が抜けたように呆然として、そして笑った。意外にお人好しな少年なのだが、どうしてもそんな風に自分を気に掛けていることがおかしく思えてくるのだ(きっとこの少年は、情が深いのだ)。そう、確かに、のんびりしている場合ではない。たったひとり、彼岸をよく知る友人はそれらを忘れていて、認める者は消えてしまった。つまりは、自身の足場ががらがらと崩れてしまった。ふと、自分がただ信じているだけのあちらは幻想で、この隣に居る少年のような存在は俺の妄想のような気さえしてきてしまう。自分はあちらの世界の住人だと信じ込んでいる狂人のように思えてきてしまう。消化されることの決してない不安が、胃の中をぐるぐると廻っている。
「うん、確かによくないね」
そう言うと、隣の少年今度は不審そうに、また眉を潜めた。ならどうして、と、この少年は思っていることがどうにもそのまま表情に出て来てしまうようで、ありありと顔に描かれていた。口に出さないのは配慮ではなく、ただ単に面倒だからとかそんなところなのだろう。ある意味で、自分とは対極にいる存在だ。なぁ俺は今まで何かを誰かに伝えたことなど一度もなくて、きっと心から何かを感じたこともなくて、でもそれでも不自由せずに特別不幸だなどと思いもせずに、生きてきた。言ってしまえば、此処とは違い俺の居た世界では、それが正しい生き方だった。でも、きっと、そういう生き方だって間違いではないと俺は思っている。自身の心を抑えて、ヘビーな部分には触れず、考えず、ただ笑ってもらえるようにとか楽しんでもらえるようにだとかを考えて、生きていく。それもひとつの生き方で、それをやり遂げることもひとつの強さだ。でも、たぶん俺の生き方はそれとは違っていたのだろう。見ない振りをしたのも、ただ過ぎ去っていく風景を見ていたのも同じだけど、俺はそれで自分やその周りの人々をもっと幸せにしようと思ったことはなかった。そういう風に、深く考えないことで、触れないことで守ろうとする大事なものは、俺にはひとつとしてなかった。ただ、周囲の平穏さに流されて、痛みを恐れて、何かを巻き込んでしまう可能性を恐れて、のらりくらりと息をしていただけだった。
「ねぇ、露草」
「いきなり何だよ。気色悪い」
「いいから聞いてよ。ちょっとくらい」
そう言うと、また顰めた眉が解かれて、困ったような目をされた。そして、聞いてやるからじゃあ最後の団子をもらっていいかと聞いてきた。なんて正直な奴なんだろう。うん、と小さく頷けば、彼は少しばかり喜色を滲ませつつ、最後の一本を手にした。なんとなく、微笑ましい気持ちになりながら、目を逸らす。それから先、気恥ずかしいような、抑えきれないような、ぐちゃぐちゃに何かを掻き回されたような不思議な心地で俺はただ話した。
「俺さ、何だか今になってやりたいことがたくさん出来て」
滑るように動いた唇に反して、声が震えた。緊張しているのかもしれないと思う。視線は外したままで、それが気恥ずかしさからなのかただ前を向いていたいという純粋な気持ちからなのかは、混乱しているせいでよくわからなかった。
「まずは、謝りたいんだ。今まで蔑ろにしてきた、全てに」
なんとなく、気配で隣の少年が驚いたことがわかったけれど、やはりそちらは向かなかったし、向けなかった(前を見ていたいのか、前しか見れないのか、どちらだろう)。ただ「蔑ろ」という言葉に驚いたのだろうかとぼんやりと思う。確かに、彼にとって自分はそのようには見えないのかもしれない。けれど、自分は間違いなく色々な人や事象をぞんざいに扱ってきた。自分が傷つきたくなかったし、相手も傷つけたくなかった。そう、今、この訳のわからないような、穏やかなような状況の中、何かを食われたような、そんな空虚は確かにある。忘れられたことに対する、嘆きも。けれど自分はそれらにすぐに同化してしまい、そして示されたのは、今までの自分の浅はかさだ。俺の考えは、きっと正しい。執着の分だけ離別の悲しみは深いものだ。だからこの別れは、薄ら寒い風を自身の心に吹かせただけで終わったのだ。泣きたくなった。霞んでゆく愛しい姿に、どうしてもっと本気で手を伸ばさなかったのか。後悔は先に立たないと言うが、本当にその通りだ。目の前にあった、確かに愛しいと思っていたものにすら触れられなかったなんて馬鹿な話でしかない。そう、だから、もう一度でいいから。
「次はちゃんと大事にするって言うんだ、大声で」
「うん」
「それで、お世話になったことへのお礼も」
「そうか」
「そう。それで、また謝る。これから俺はたくさんわがままを言うようになるからって」
「わがまま?」
「うん。きっと、たくさん迷惑をかけるだろうし」
「ふぅん」
「それで、あとは・・・」
そこまで言って、ぽんと肩を叩かれた。向けないと思っていた彼のほうへごく自然に目を向けると、今まで短い相槌を打っていた彼は、意外にも真剣な顔をしていた。「なぁ」そこで言葉を切って、差し出されたのは若草色だけが残った最後の一本だった。なんだ、まだ全部食べていなかったのかなんて考えながらそれを呆然と見つめていると、「やる」とぼそりとした呟きが聞こえてきた。気のせいだろうか、と思えば、少年は呆れたように眉尻を下げて、「だから、やるよ」と団子を手にしている腕をこちらに押しやってくる。はっと我に返り、それを受け取る。彼のそのただならぬ様子に、ふと、自分が泣いているのではないかと思い、思わず目尻に手をやったが水滴はどこにもなかった。ほっとしつつ、けれどそれではこの少年は何故こんな行動に出たのかと不思議がる。どうやらそれが顔にありありと出ていたのか、彼は「どうでもいいだろ」と短く言って、立ち上がった。何かを振り切っていくようなその様に、やはり彼は情に厚い奴なんだと思う。自分よりもよっぽど幼さの残るその後姿のくせに、何かとてつもない強かさが其処には確かにある。乾いた、笑いが漏れた。自分はなんて、だとか、思うことは卑屈だとわかっているが。でも、それでもなんとなく、励まされたような気分になるから不思議なものだ。それとも、意図的に彼は自分を励ましたのだろうか。この、情けなく串に刺さった若草色で。
(あぁでも、そうか)
もしかするなら、本当にそうなのかもしれない、と思う。ぶっきらぼうな少年のふとした優しさに、なんとなくおかしくなって、笑みを含みながらおいしそうな色をした若草色を口にする。ふわりと、口内に控えめな甘さと涼やかな香りが広がった。やはり励まされているのかもしれない。そうだ、だって、俺はこれから先、さっき少年に伝えてように生きていくとするならば、間違いなく。
(今までと比べものにならないほど、傷ついていくことになるんだろうな、俺は)