「どうして人間は眠るんだ?」

そうひとり呟きながら、自分はとても気の抜けた間抜け顔の彼に小さな石を投げつける。あぁ起きない。視界も意識も失ってしまう、こんなに無防備な状況に陥ってしまう眠りを、何故、人は進んでしたがったりするのだろう。あながち死んだようにと言っても過言ではないほどに、まったく動かず聞こえず見えず、考えることもできない眠り。目の前の人間が、間抜け面でよかったと少しほっとした。もしもただ目を閉じたというような眠り方をされたら、それこそまるで死体のようにしか自分には見えないから。まるで死体のような彼が、自分の目の前に居続けるのはどうにも気持ちが悪い。そう、眠りなんて、酸素を求めて微かに上下する肩くらいしか、死体との差がわからない。自分には。そうして、そんな風に思考している間も、彼は眠り続ける。そんなに疲れているのであれば、食べもしない料理を持ってくるのなんかやめてしまえばいいのに。「おい、」と呼びかけながら、また小さな石を投げつけるが、起きない。馬鹿か。敵の前で、眠りにこけるような馬鹿な奴があるか。そう思いながらも、彼がそこまで鈍感な人間でないことはそれとなく察しているので(絶対に口にすることはないのだろうが)たぶん、自分が敵と見なされていないせいなのだろう。そう思うと、呼びかける声も刺を持つ。「起きろ!」と荒々しく叫び、今度は中くらいの石ころ投げつけ、見事に頭に当ててやった。それまで気の抜けていた顔が、さらに素っ頓狂な顔になって訳がわからないというようにこちらを見つめて来た。あぁ馬鹿の顔だ。嘲笑ってやるが、彼にはそれすら自分の意図したようには伝わっていないように思えた。その証拠に、酷く間延びした返答をする。
「あ、えっと・・・私、眠ってました?」
「ぐっすりとね。まったく本当に馬鹿なんだなアンタは」
それはまた嘲笑うかのような口調だ。けれど彼は気にする素振りなどまるで見せず「起こしてくれてありがとう、おとろしもどきさん」と嫌味が入っているのかそれともただ単に自分のことを呼びたかっただけなのか、わからないがそのどちらも含まれている、と思う。彼は、意地が悪いから察することは難しいのだ。はぁ、と溜息を吐く。どうにも間が取りにくいというか、食えない人間だった。顔をあげれば、彼は自分にあたたかそうな食事を差し出していた。いらない、といつも拒絶している食事を。「いらないんですか?」と小首をかしげて可愛らしく問う(実際、見てみるとまるで可愛らしくはない)。多少の苛立ちを感じながら、それを伸ばした手で押しやり拒否すると、彼は残念そうな顔をした。それさえ、苛立ちを何故か増徴させていく。それらの怒りというか苛立ちを吐き出すように、自分は「なら、さっきの質問に答えろ」と半ば殴りつけるような口調で言った。は?と彼が間抜けた顔を再び曝したのも無理はない。先の質問を、彼は聞いていなかった。眠っていたから、聞こえなかった。
「そんな風に、意識も視界も全てを放棄してしまうような睡眠を、何故、人間はご丁寧に毎日くり返す?」
間抜けた顔は変わらない。しばしの沈黙が、夜の冷気の温度へ溶けた。微風に当たり幼子が怯えるように震えている格子窓の唸りが、妙に耳障りに感じられる。そしてその原因を作る微風の音が、間近で通り過ぎる虫の羽音に似ているように感じられ、これもまた耳障りだった。静寂が落ちる。彼は黙ったままだったが、ようやく寝惚けた頭で質問を理解したというような振りをした。振りだとわかった。今の静寂は、とても緊縛したもので、決してただの間ではなかったからだ。そして、重く閉ざされたような口をやっとのことで開いていた。「何故、と言われても、眠らなければ人は死にますから」何か、恐ろしいことを口にするとでも言うような苦しさが垣間見えた気がした。
「そうなのか?あんなに無防備じゃ、それこそ死にそうに思えるけどな、哀れなことに」
「あなた方にはそう見えるかもしれません・・・けれど、私にしてみれば」
また、風の音だ。あの微風。虫の羽音ではないことはわかるが、どうしてか不愉快だ。けれど自分は彼の言葉のその続きを聞きたくて、耳障りな音を黙認した。彼は居心地が悪そうに、少し姿勢を変えた。それが正しい方へ変化したのか、それとも楽になるように変化したのかはよくわからなかったが、重い布と布が擦るような音が再び訪れた静寂に響いた。彼は、見計らったようにまた重い口を開く。「私からしてみれば、あなた方の方がよっぽど哀れだ。」

自分でも眉間に皺が刻まれていくのがわかる。哀れなど、何故、こんなただの人間に言われなければならない?荒々しく、今度は苛立ちではなく本当の怒りが込み上げてくる。「何故そう思う?」と問う。彼は、こちらが怒りを持ったのをわかっているようだった。この冷気の中で、自分の中の熱さは途方もなく目立ってしまっていたから。
「眠れないなんて、思考を放棄することができないなんて、哀れですよ。特にあなたは」
「別に、僕は君のように馬鹿じゃないから放棄する気なんてないんだがな」
彼は、今度こそ本当に哀れむかのように目を細めた。それが自分の怒りを逆撫ですると、わかっているのだろうか?明らかに荒々しくなっている口調に気が付いていないわけではないのだろう。それでも、相手に不快感を与えるとわかっていても、そうやって目を細めて哀れむことを止められないというのか。「それは、眠ったことがないから言えるんです」明らかに、真っ向から自分を否定した。自分は、思考することにそれなりの誇りを持っている。他の妖とは違って、かなり深く思考できるということに。それを否定された気がしたのだ。あまりに、極端すぎるかもしれないが、でもそう思った。失望したのだ、彼に。(それはつまり、彼に何かを期待していたのか?)だから、立ち上がって出て行こうとした。もう、こんなところに用などないと。けれどそんな動作をしても、彼は哀れむように目を細めることをやめはしない。明らかにおかしかった。彼は、人の神経を逆撫でしても、完全な怒りを彷彿させることは決してない人物だったから。というより、自分に対してそうだったのだ。だから、思った。恐らくこのことは、彼が決して譲ることはできない点なのだ。だから、今も頑なに哀れな目で自分を見つづける。だからこそ自分は失望する。お互いが重要視する点で自分達は真っ向から否定し合っている。思考が哀れだと言う。やはり苛立った。勘弁して欲しい。けれど、それでもこのままひとり黙って出て行くのは癪だったので、置き土産のようなつもりで聞いてやった。「もし眠ったまま、思考を放棄したまま死んだとしたらどうなるのかな?」。沈黙はなく、引き継ぐように迷いのない言葉が小さなこの空間を走り去った。「どうなるも何も」彼はそこでとても嬉しそうに、けれど蒼白して、笑った。

「それは私にとってとても幸せなことなんですよ、おとろしもどきさん。」
奥光りした眸が目の前にあるかのような錯覚に陥り、そしてその錯覚は自分の思考を根こそぎ奪い、さらには此処を出て行こうなどという考えを吹き飛ばしてしまった。変わらずに、微風の音は虫の羽音に似て不愉快だ。彼のこの可笑しな笑みも。







080216
残留