そうして、今、目の前にあるのも猫だった。赤く、血にまみれた猫だ。たぶん、死んでいた。今度もまた、おそらく外部からの傷を受けて死んでいた。誰が殺した?自分は無意識の内に心の中で問うたが、答えはない。当たり前だった。今、自分の隣にいる者は、そんな答えを知るはずがなかった。自分は深く息を吐いた。そうしていないと、此処に立っていることは無理だったから。そうして、顔をあげる。すると、先ほどの答えのないはずの問いの真実が、そこにあった。こちらを、何ともいえない目つきで見る、少年だった。その目つきは、慈愛に満ちているとは到底言えなかったし、けれどそこに憎しみがあるかと言われれば、それも嘘だと思う。とにかくおかしな目つきで、哀れみも、なかった。「無」という感情がこの世にあるなら、まさしくそうであろう。そんな雰囲気だ。篠ノ女もその少年に気がついたらしく、「あぁ」というような顔をした。あぁ、彼がやったのか、と。それは推測ではなく、一種の確信であった。
「なぁ、お前」
そうして、見詰め合うわけでもなく、ただ対峙するだけの数秒間が過ぎた後、真っ先に口を開いたのは篠ノ女だった。それは年長者としての、重みを持った呼びかけのように思えた。自分は、何か、あの少年に言わなければいけない気がするのだけれど、何も思いつかなかった。情けのないことに。ただ、それは篠ノ女も同じだったようで、少年の冷たい「何さ?」という返答に対しての間が嫌に長かった。どうにか口を開いたが「お前がやったのか?」と、分かりきったことを口にしたのみだった。少年はそれを嘲笑うかのように「あぁそうだよ」と微笑する。なんともタチが悪いとしか、そうとしか言えない微笑だ。恐ろしかった。大人がこういう笑みを浮かべたところを、自分は何度か見たことがある。が、子供がこんな笑みを浮かべたところは初めて見た。狂っているのか。思わず「なんで・・・」と、責めるような声で言った。あぁ、なんて情けないんだ。そうは思ったが、やはり何も思いつかないのだ。
「そいつは、僕の猫と喧嘩したんだ。僕の猫は瀕死だ。だからそいつを殺した。ねぇ、なにが悪いの?」
子供とは思えない無機質な声で、淡白に言った。「なにが悪い」と、本気でそう思っていた。あぁそうだ、彼の猫は瀕死で、だからこの猫を殺した。単純明快なまでの心理がそこにはあった。憎かった、とそれだけだ。たったそれだけ。自分は、益々どうしていいかわからなくなるばかりだ。見上げると、篠ノ女は呆然というより、ただただ驚いているようだった。お互いに、子供が顕わにした憎しみが、どうして信じ難かった。そして純粋なまでのその心理が、怖かった。少年は、先ほどまでと変わらない表情と目つきで「お前らは、僕の猫よりそいつの方が大事なの?」と吐き捨てていった。そうして去った。自分は、あの時と同じようにうずくまる。目の前のいのちだったその塊を、動かすことも何をすることもできずに、小さな子供みたいにうずくまった。何もいえない、責めることなんて到底、無理だ。そうして渇いた息を吐いた。そうしなければ、とてもじゃないけど耐えることができなかった。
「初めて見た、ああいう目を」
「あぁ・・・でも、知ってることだろ」
知っている、というより自分の中にあるのだろう。ああいう目をする、どうしても耐えることの出来ない重みを口にするその思いや感情が。誰もの中にあるんだろうと思った。例えば、隣の彼にもだ。そう考えると、どうにも信じ難いような気がしたし、在り得ない事のように遠くに感じた。でも、在り得ないなんてそんなことはあるわけがないのだ。
「俺達も、ああなったりすることがあるのかな」
さぁな、と言われ、どこか安堵したような不安になったような。そうして無言で腕を引っ張られたので、それに従って立ち上がる。人を本気で恐ろしい、とそう思ったのは初めてかもしれないとぼんやりと考える。自分に、ああやって滑稽とも思えるほどに単純明快な心理に身を任せてしまう日が来たらどうする?とそればかりが不安で、また耐え難いというように重く息を吐き出した。
080724
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