昔、日記を書くことが苦手だった。夏休みの宿題で書かなければいけなかったその白紙を、悶々と悩みながら見続けていた覚えがある。別にその日はなんてことはない、普通の日だった。そんな中から、何か特別な事と特別な感情を見出してここに記せ、なんて無理だ!思ったことはこんなことだ。たぶん、語彙の少ない小学生だったからもっと幼稚な言葉だったと思うけれど。とにかく苦手だったのだ。遊園地に行ったわけでも、プールに行ったわけでも、キャンプに行ったわけでもない。そんな日を、どう文章で表せばいいかと目まぐるしく考え続けて、結局何も思いつかず、朝からの出来事をずっと徒然と書いていたりした。それを登校日に学校へ持って行く。その毎日同じようなことしか書いていない日記を、担任は訝しげに見つめていた。自分はどこか悪いと感じながらも、でも普通の1日を日記にするなんて無理だ!と開き直って、そうして日記を書くことがどんどんと大嫌いになっていった。今だって、書けと言われても、30分くらいは考え込んでしまうかもしれない。それとも、意地の悪い脳が作り話という嫌な逃げ道を作り出すかもしれない。ただ、どっちでも普通の1日を日記にできないことには変わりなかった。


「そんなの誰でも苦手だろ」
「そうかな?俺の隣に座ってた女の子、キラキラした瞳で「私、日記大好きなんだ!」とか言ってたけど」
「そういうのは特殊なんだよ。俺も嫌いだった」
「へぇ。で、どうしてたの?」
「書かなかったな。面倒だったし」


そのさらりとした言葉に、鴇は少し笑った。まぁらしいと言えばらしいだろうが、そんな単純かつ明快な答えを思いつくのは誰もが思いつくが、実行することができるのは彼くらいだろうと思った。教師からすればなんて身勝手なのだろうと言ったところだが、自分からしてみれば苦し紛れに1日を書き綴った意味のない文章よりも、何も思いつかなかったという白紙の方が物語ることは多い気がする。そもそも、子供に対して普通の日を言葉にしろなんて大概、無理な話なのだ。思い返してみれば、子供の頃の普通の日とは、意識も思考もはっきりしていないせいか今より何もなかったように思える。本当に、無理な話だ。せいぜい覚えていることといえば、頭を撫でられただとか、誉められただとか、怒られただとか、そんなことばかりなのだ。でも、結局は言葉にすることもできなくてただ1日を追うだけのものになってしまう。・・・だったら「愛された」とでも書いておけばよかったのだろうか?あの白紙にひたすら毎日「愛された」とでも書いておいたら、担任はどんな顔をしただろうか。間違っちゃいないと笑うだろうか、それとも毎日同じ文章なんて・・と怒るだろうか。こういうところはよくわからないが、でも後者は間違いだろうとは思った。だっておかしいことではないだろう。その日「愛された」のだから、それを素直に書いたとしても別に罰は当たらないだろうに。そう考えて、あの白紙にひたすらに「愛されました」なんて書いてあるのを想像すると、馬鹿みたいにおかしい気がしてきて(実際おかしいのだろうけど)笑いが込み上げてくる。間違ってはいないはずなのに。

「・・・何にやにやしてるんだよ」
「えっ、いや別に何でもないけど」
「ふーん」

そうして紺はこちらをちらりと見てからからかうような笑みを向けてきた。笑みだけじゃなく、いつものように口に咥えられた煙管が揶揄するように上下に動くのを見て、あぁからかわれてるんだな、と納得する。まぁ人目憚らず勝手自分の世界に入って、そうして思わず笑ってしまった自分が悪いということはわかっているのだけれど。ただそんな風にからかわれてからも、先ほどの考えは頭を離れず、口の端があがるのを我慢できない気分だった。


「あのね、夏休みの日記に書くいい言葉を思いついたんだよ。って言ってももう使えないけど」
「それはよかったな」

「聞かないのかよ」と言いたい気もしたが、どうせ聞いても答える気が自分には無いような気がしたのでやめておく。その代りと言ってはどうかとも思ったが、立ち上がり際に紺の背中を昔、泣いている自分に誰かがそうしてくれたように軽く、けれども優しげなつもりで叩いてみた。叩かれた本人は、よくわからない、という間の抜けた表情をこちらに向けるばかりだったけれど。昔からしっかりとした形を受け取ってきた自分には、真似することぐらいはできるのかもしれない。







080216
残留